旧日本海軍の呂500潜水艦を発見(全文1)若狭湾水深88mの海底に沈んでいた
ラ・プロンジェの調査について
私どものラ・プロンジェは何をしてるかというと、ちょうど1年ぐらい前には五島列島沖合の海没処分、同じく海没処分をされていた24艦の潜水艦の調査をして、この同じ場所で記者会見をしたのがちょうど1年前なんですけども、そのときにはこれは伊の58の潜水艦がこんなふうになっているということを探し出したわけですね。それからこれは伊の47ですが、垂直に立っている潜水艦が2艦、立ってる潜水艦があるっていうことを発見したわけです。 われわれは目的としては、海の中に沈んだものは、もう忘れ去られていってしまう。海の中は出掛けて行かない、行くことができないんで、ほったらかしになっている。それで特に潜水艦は遺跡として残っているものがほとんどないので、忍者みたいなものですから、どこに沈んでいるかも分からないというものもたくさんあるわけです。それをできるだけ掘り起こして歴史の事実というものをきちんと皆さんに提示するということが、非常に重要なことではないかというふうに思います。現物がそこに沈んでるものを、われわれの新しい海中技術を使って発見して、皆さん方にそれを提示して、海というものはこういうものである、潜水艦技術はこうである、あるいは歴史はこうだからということを再び日に当てたいなというふうに思っています。歴史を学ぶことは未来を考えることの基礎でございますから、潜水艦がそういう意味で忘れ去られていくというのは良くないことであるし、われわれの技術でそれができればな、というふうに考えてやってるわけでございます。
発見された潜水艦について
実際にこれは伊の47ですけども、五島列島沖には24艦がこういうふうに沈没しているんです。いましたということが分かりました。これは24艦は海没処分されたんですが、その月の4月の30日に若狭湾で3艦海没処分されているということが分かっています。これは防衛庁の防衛研究所が作った『潜水艦史』という本なんですが、昭和50年にできているんですが、そこに、445ページにこのように記述されています。伊の121、呂の68、呂の500、21年4月30日、若狭湾において米軍が処分したということです。その3艦は、勝目さんの「日本海軍の潜水艦」からこれ、持ってきたものなんですけども、呂の500はこのくらい、七十数メートルの大きさ、伊はちょっと大きい、121ですね。呂の68は少し小さい。伊の121は、これは機雷を敷設する潜水艦です。呂の500はUボートです。UボートのUの511でして、それでそれは喜望峰を回って90日間掛かって呉に来るというふうで、ことで、ドイツ軍の艦長がこれを連れてきました。 ドイツは当時2艦、潜水艦を日本に譲渡してました。1つは、もう1つのUボートは日本人によって運ばれてきたんですけども、大西洋で撃沈されて沈んでいます。ですからドイツからもらった2艦のうち1艦はたどり着かなかったということです。そういう歴史があって、私どもは非常にこれに注目しているわけです。実は呂の500っていうのは、くしくも12月8日に竣工しています。1941年ですけど。そのあと、ドイツで造られて大きさとしては、【排水量としては 00:07:28】1120トン、全長76メートルです。伊の121は1927年に川崎重工で造られていて、85メートルです。それから呂の68は1924年に三菱重工の神戸で造られていて、長さが76メートル、こういうふうなものでございます。 これは非常に重要な、あとでこれ説明するんですが、舞鶴湾から出ていくところの3艦の絵です。写真です。真ん中が伊の121。向こう側が呂の68。これが呂の500です。実はここにペンキで名前が書いてあるんですが、ここにも書いてありますが、これはあとで米軍が書いたもののようで、この艦とこの艦は間違って書かれています。ここに、見ていただくと、伊の121って書いてあるんですが、これは間違いで、これは呂の68です。それは写真を見れば分かるんですが、こういう、この3艦がここに沈められていて、これは今から沈められようとしているところなんですけども、デッキ上の形、それからこのへさきの感じ、あれだ、艦橋の部分がそれぞれ、ずいぶん印象が違うというふうな感じがお分かりになるかと思います。 呂の500、Uボートですが、Uの511は1943年の5月10日にドイツに占領されているロリアン港を発して、22日ごろ赤道【ヲ*ゴ**キ00:09:14】して、27日ごろ赤道を通過して、6月10日に喜望峰を回ってマダガスカルに行って、7月1日にペナンに来ています。 このときに日本人は、野村直邦さんという方ともう1人、軍医さんと2人日本人が乗っていて、そのことがこの野村直邦さんが「戦艦U-511号の運命」、1956年に書かれた本なんですけど、そこに非常に詳しく書かれています。で、その内容が吉村昭の『深海の使者』っていうところに反映されていると思います。で、吉村昭さんはもう少し【広い感じですか 00:10:01】。実はこの野村さんの書かれたこの本には、U-511、つまり呂の500は土佐沖に沈められたって書いてあります。 で、私は、それはかなり心配していたことがあって、本当、彼はこの船に乗って来たわけですから、ペナンまで来て、で、ペナンから飛行機で日本に。後日、東条英機の最後の海軍大臣になるわけでありますけれども、そういう方なんですが。で、間違ってることはないんじゃないかと思ったりして、非常に不安でした。で、おそらく聞き間違えたのは和歌山沖にほかの潜水艦が何艦か沈められています。紀伊水道。それを土佐沖と理解して、それで呂の500と間違えたということではないかなというふうに思っています。それで、【ドウ*ク00:10:59】、最後の艦長は山本康久さんです。ただ、11月30日に除籍されて、4月30日、昭和21年の4月30日に海没処分されて、私どもが6月20日に発見したということでございます。