鹿取義隆は「壊れてもいい」とシーズン63試合に登板 「カトられる」という流行語を生んだ
江夏が抑えで機能した広島が優勝を決めた79年、巨人は5位と低迷。オフには若手中心の秋季キャンプが静岡・伊東市で行なわれ、投手は江川卓、西本聖、藤城和明、赤嶺賢勇、角盈男とともに鹿取も参加。ランニングをはじめハードな練習を課したことで「地獄の伊東キャンプ」と言われたが、それぞれ選手ごとに課題もあり、鹿取は実戦形式の練習のなかでシンカーを磨いた。 「角がサイドスローに変えたのとは違って、僕のシンカーはそんなに明確な課題ではなかった。一番の課題は体をつくることで、ランニングなんかはもう初めての経験できつかった。本当にしんどかった。でも、これをやらなければ上に行けないんだなと思ってやったんです」 迎えた80年。鹿取は51登板で4勝3敗3セーブながら、86回を投げて防御率1.78という成績。リリーフの評価基準が勝ち星とセーブだった当時、その2つがなかなかつかない鹿取は登板数を積み重ねつつ、防御率の良化に努めていた。その点では好結果だったのではないか。 「たしかに僕の場合、登板数と防御率を追い求めるしかなかったから、結果はよかったです。でも、チームとしてはよくないわけ。当時は先発完投が野球で一番勝つパターンだったから、そのなかでリリーバーが出ていく試合が多いというのは、今と違ってチーム状態がよくない。実際、その年も3位に終わっているんだよね」 常勝を義務づけられた巨人に、AクラスでOKという概念はない。78年から3年連続で優勝を逃した監督の長嶋茂雄は解任され、81年から投手出身の藤田元司が就任。先発完投重視の監督だけに、その年、右手小指骨折のケガもあった鹿取の登板数は22試合と激減する。角が抑えで20セーブを挙げて最優秀救援投手のタイトルを獲り、優勝に貢献したのとは対照的だった。 【壊れてもいいと思って投げていた】 翌82年も21登板に終わったなか、藤田ならではの考えがあったのか、鹿取は5試合に先発。さらにオフには藤田からアンダースロー転向を指令されるも、右腕に過去にない張りとしびれが出て断念。チームが優勝した83年は38登板も、やはり5試合に先発してプロ初で唯一の完投勝利も挙げた。この時期、リリーバーとしては停滞し、起用法も定まっていなかった感がある。