「首をノコギリとメスでちょん切ってバケツに」伝説の社会部記者が伝えた“首なし事件”の真相〈警官の拷問を告発するため…〉
「警官に撲り殺されたのではないか」
終戦間際、彼の姿は千葉県佐倉市に疎開していた弁護士正木ひろしの自宅にあった。正木は冤罪事件の刑事弁護を引き受け、無辜の人々の救済に生涯を捧げた抵抗人である。 48歳の彼を一躍有名にしたのは、1944年1月の「首なし事件」であった。それは正木が警察官による拷問死を立証する過程で起こしたもので、羽中田はその真相を取材しているうちに、正木と親しくなったのだった。 事件の被害者は、茨城県那珂郡長倉村(現・常陸大宮市)にあった長倉炭鉱の鉱夫頭である。賭博の取り調べ中に脳溢血で倒れたとされていた。医師の診断や水戸検事局の結論も病死だ。ところが、石炭採掘場の人々は、 「花かるたに興じた仲間が、前日にも取り調べを受け、警官に棒や素手で殴られて失神したり、厳冬の中に裸で放置されたりした」 「死んだ男は頑健で脳溢血の血統でもなかった。警官に撲り殺されたのではないか」
と言う。当時は警官や憲兵たちによる拷問が公然と行われており、警察や検事局は全く相手にしてくれない。調査依頼を受けた正木は憤然とし、深夜、埋葬された寺に忍び込んで、死体を墓から掘り返した。 それどころか、首をノコギリとメスでちょん切ってバケツに入れ、満員の列車で東京に持ち帰って鑑定に出した。乗り合わせた乗客は風呂敷に包んだバケツから腐臭がするのに気付き、鼻をふさいでいたという。他殺の証拠を捨て身で押さえたのだ。もちろん違法である。 それをもとに当局鑑定のウソを暴き、拷問致死や証拠隠滅容疑で告発したのだが、正式な鑑定人が死体を掘り出したときには、首がついていなかったから誰もが仰天した。検察当局は激怒して墳墓発掘罪や死体損壊罪で起訴する構えを見せる。だが、正木は1937年に3000部で創刊していた個人雑誌『近きより』にいきさつを詳細に暴露し、逆に警察や検察、医師の非道を訴えた。 そして、事件から10か月後、水戸地裁が拷問を加えた警官に無罪を言い渡すと、正木は裁判長を「卑怯者!」と面罵した。あきらめない男なのである。 正木が拷問死を立証し、最高裁で警官を有罪に追い込んだのは、実に11年後のことである。