広島の酒・富久長(ふくちょう)の杜氏・今田美穂が切り開く「世界の日本酒」への道
浮田 泰幸
英国BBCが毎年、世界の人々に感動や影響を与えた女性を選ぶ「BBC 100 Women」で、2020年に唯一の日本人として選ばれたのは、広島で酒造りに励む杜氏(とうじ)、今田美穂さんだった。2年後、彼女は米誌『フォーブス』が50歳を超えて活躍するアジアの女性50人を選出する「Forbes 50 Over 50 Asia」にも、小池百合子、草間彌生らと共に選ばれる。世界が認めた酒造りの、背景・現在地・未来像を探りに、広島県東広島市安芸津(あきつ)町を訪ねた。
酒は風土と人が造るものであるという「原点」
「午前中はお酒の仕込みで手が離せないので、午後にいらしてください。お時間があるようでしたら、周辺を見て回られたらいいと思います。おすすめのポイントがあります」 2023年10月末、蔵を訪ねたいと連絡した時、今田酒造本店の経営者で杜氏でもある今田美穂さんからこんな返事をもらった。彼女の「おすすめのポイント」は二つあり、一つは瀬戸内海に浮かぶ大芝島へと渡る大芝大橋、もう一つは今田酒造と同じ東広島市安芸津町内にある榊山(さかきやま)八幡神社だった。 大芝大橋からは、濃淡さまざまな群青色がグラデーションをなして重なる島影を背景に、静かな海が面(おもて)に無数の光の粒を踊らせて広がるさまを見た。こんな景色の中で育ったら、人はあくせくしたり、せかせかしたりしないのではないかと思った。 一方、榊山八幡神社では三浦仙三郎の銅像が待ち受けていた。弘化4年(1847年)安芸国賀茂郡三津村(現在の安芸津町三津)に生まれた仙三郎は、酒造りには不向きとされた地元の軟水から良酒を造る醸造法を研究開発、これを地域に広め、広島を銘醸地の一つに押し上げ、安芸津が杜氏を輩出する土地になるきっかけを作った人だ。 酒とは本来、風土と人が造るものであるという「原点」をまずは見て来てほしい、と今田さんは考えたのだろう。 かつて安芸津の港は米の積出港として栄えた。人々は米に付加価値を付けて高く売るために酒造りを始めた。最盛期には300人の杜氏がこの町から出稼ぎに出ていった。だが、今は今田酒造と柄(つか)酒造の2軒の蔵が操業するのみ──。 朝の仕込みに使ったに違いない大判の白い布が物干し場にはためく中庭に、今田さんは屈託のない笑顔で現れた。