パンデミック、戦争、AIの台頭を目撃している現代は、本当に「時代の節目」と言えるのか?
パンデミックや戦争、オリンピック、あるいはAIの台頭。さまざまな出来事を目撃して、私たちは「時代の節目だ」と感じることがある。だが「節目」に思えるそれは、何をもってして節目と言えるのだろうか。科学や歴史、文理の垣根を越えて、科学史家の神里達博が解説する。 元占星術師が語る「占いが的中する理由、私が占いをやめた理由」 ※本記事は『文明探偵の冒険 今は時代の節目なのか』(神里達博)の抜粋です。
絶え間なく変化する世界の「節目」とは?
私は子供の頃から、繰り返し「今まさに古い時代が終わり、新しい時代が始まろうとしている」などと聞かされて育った。本や雑誌も、またテレビや新聞などさまざまなメディアも、そして学校の先生や周囲の大人たちも、何かにつけて、そういう種類のことを言っていた。 それは、大きく二つの流儀があったように思う。一つは「古い時代の終焉」に重心を置いた悲観的なカタストロフ論、もう一つは「新時代の到来」を意気揚々と語る楽観的なユートピア論である。いずれにせよ、今は「時代の節目」であり「転換点」なのだという点で、両者の見解は一致していたように思う。 いや、実際にはそのような「時代の節目」論ばかりが世間に横溢していたのではなく、「時代が変わる」というエッジの立った言葉を、子供の私が単に選択的に聞き取っていただけなのかもしれない。 理由は簡単なことだ。自分が生を受けたこの20世紀後半が、凡庸で退屈な時代であるよりも、何やら特別な使命を帯びた、スペシャルな時代であったほうが面白いからである。当座の社会的責任を免れている子供にとっては、自分は何の努力もせずとも「特別な時代の証人」になれるのだから、これはかなり魅力的な思想であったにちがいない。 その後、少々齢を重ね、歴史のことも幾ばくかは知るようになると、濃淡はあれ、いつの時代も結構凄いことが起こっているという事実に気づかされていく。 また、新しい時代が来るのは悪くないとしても、それ以上に、古い時代が終わることによる社会的混乱や、人々の苦悩への想像力が充実していき、歴史の大転換を無条件に期待するようなやんちゃな童心は、胸腺と一緒に収縮して消えていったのである。 「自分の生きている時代も、色々なことはあるにしても、まあ、ありふれた歴史の一幕に過ぎないのかな」などと、予定調和的に納得していったのだ。大人になったのだろうか。 だが、いつ頃からだろうか、たぶん平成に入った頃からだろう、なにやら自分の生きているこの時代が「実は、本格的におかしくないか?」という気がしてきた。子供の頃から聞かされてきたあの、甲高い「古い時代が終わり、新しい時代が──」という声が、私の心の中で再び説得力を持ちはじめたのである。 最初にそう思ったのは、1991年の雲仙普賢岳の火砕流の時だったかもしれない。多くの報道関係者や消防・警察など、40名以上の人々の命が一瞬にして奪われた。その4年後、阪神淡路大震災が起こり、また地下鉄サリン事件が起こった。私はそこで、「戦後」という時間の塊が、はっきりと切り離された気がした。 だが「断章」はそれにとどまらなかった。2001年9月11日には世界貿易センタービルへのテロが起こり、アメリカは泥沼の戦争に巻き込まれていく。そしてその10年後、東日本大震災が起こり、原子力発電所が爆発した。さまざまな「不幸中の幸い」もあり、日本は九死に一生を得たのであるが、周知の通り、問題解決への道のりは遥か遠い。 私が「時代の節目」と感じる理由は他にもさまざまあり、決して一言で尽くせるようなものではない。だが、とにかく、自分のなかの外界を測定する色々な計器類が、「時代の節目だ!」と騒ぎ出し、そのメーターは今現在も、一向に正常値に戻る気配はない。 それでは、この直観が示すところが「事実」なのかどうかを確かめるには、どうしたらよいのだろうか。我々は今、本当の本当に「時代の節目」に立っているのだろうか。だとすれば、それはどういう意味で「時代の節目」なのか。(続く) レビューを確認する 第2回では、時代の節目と「予言」について詳しく解説する。「ノストラダムスの大予言」や凶兆である「ハレー彗星」の観測は、現実にどう影響するのか。
Tatsuhiro Kamisato