「まもなく準決勝!」半世紀見続けたレジェンド記者が高校サッカー選手権の魅力を語り尽くす
第103回全国高校サッカー選手権大会
第103回全国高校サッカー選手権大会は、1月11日の準決勝と13日の決勝を残すだけとなった。ベスト4の顔ぶれは、優勝経験がある流通経済大柏、前橋育英、東福岡の3つの実力校と、高校野球では名門ながらサッカーでは全国大会初出場という東海大相模となった。 なんと韓国で尹錫悦大統領の支持率が急上昇! 12月下旬から1月にかけてラグビー、バスケットボールなどの多くの競技で高校日本一を決める大会が開かれているが、高校サッカー人気は他の追随を許さない。たとえば、昨年の決勝戦、青森山田対近江の試合には5万5019人の観客が東京・国立競技場のスタンドを埋めた。今年度は関東勢が決勝に進むので、やはり多くの観客が集まることだろう。 高校サッカー人気が高まったのは、この大会が首都圏で開催されるようになった1976年度の第55回大会がきっかけだった。
「高校サッカー」の歴史
1918年1月に大阪・豊中で開かれた「日本フートボール大会」がこの大会の始まりだ。 大阪朝日新聞社が中等学校優勝野球大会(夏の甲子園の前身)を成功させたのを見て、大阪毎日新聞社が開いた大会だった。当時は、各新聞社が部数拡大のためにスポーツ大会を主催するのが流行だった。 このフートボール大会では「ア式蹴球」(サッカー)と「ラ式蹴球」(ラグビー)の2種目が同時に開催されたが(7日まで開かれていた高校ラグビーの前身でもある)、最初は関西地域の旧制中学と師範学校だけの大会だった。しかし、第8回大会からは全国の旧制中学が参加できるようになり、第2次世界大戦後に新制高校の大会となってからも、ずっと関西で開催されていた。 しかし、1970年代になって毎日新聞が手を引いた。その後、読売新聞系の日本テレビで大会の模様が放映されるようになり、日本テレビは大会の規模拡大のために首都圏開催に踏み切ったのだ。
高校サッカー人気の火付け役
1977年に開かれた首都圏での初めての大会では、3連覇を目指す浦和南と、従来の日本サッカーとは対照的なドリブルと個人技を武器とする静岡学園の対戦となり、5対4というスリリングなスコアで浦和南が優勝。高校サッカー人気は一気に拡大。その後は約6万人収容の旧・国立競技場が満員札止めとなることも何度かあった。 1970年代から80年代は「日本サッカー冬の時代」と言われている。 1968年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得した当時は、実業団チームが出場する日本サッカーリーグ(JSL)に4万人の観客が集まることもあった。だがその後、杉山隆一や釜本邦茂といったメキシコ五輪のスターたちが引退すると、日本代表は弱体化。アジア予選を突破できず、W杯にも五輪にも出場できなくなってしまう。また、微温(ぬるま)湯的な試合が増えて、JSLや天皇杯の観客数も激減した。 国立競技場を満員にできるのは、欧州と南米の王者同士が対戦するトヨタカップと高校サッカーだけになってしまったのだ。