出張だと妻に偽り、川に身を投げた「キャリア官僚」 なぜ“ありえない妄想”に取りつかれてしまったのか
現実とは区別のつかないような悪夢
仕事量や疲労は増える一方であった。恵一郎は徐々に、部署の業務計画がうまく進まないことを、自分の責任だと思い詰めるようになっていった。 「あのミスが引き金になって、計画に支障が生じたのではないだろうか」 「課長や同僚は自分に面と向かってミスを指摘せずに隠していて、あとで人事に反映させるんじゃないか」 繰り返すが、恵一郎のミスは、誰でもするようなささいなレベルで、組織にはまったく影響を与えていない。しかし、恵一郎は、ますます深刻に考えるようになった。 実はこの2ヶ月ほど、恵一郎はまともに眠れていない夜が続いていた。ベッドで横になっても仕事で自分が数字を大きく間違えて、政治家や国民から罵倒される姿が夢に浮かぶ。「お前なんか死ね!」と上司に面罵される場面で、飛び起きる。 汗をびっしょりかいた身体全身で、「またか……」と溜息をつく。現実とは区別のつかないような悪夢で、休息すべき夜にかえって疲労してしまう。仕事も精彩を欠いており、通勤電車での読書もほとんどできなくなっていた。 まともな休日があれば、家族も異変に気づきそうである。しかし、休日出勤が続いていたことと、恵一郎の妻が週末も子どもの親の集まりなどで忙しかったことから、家族でゆっくりする時間はほとんどなくなっていた。
レンタカーを借りて向かった先は…
恵一郎は、週末にレンタカーを予約した。妻には、「地方説明会で出張する」とうそをつき、一日家を空けることを伝えた。地方出張はたまにあるので妻は「普段は1ヶ月くらい前から伝えてくれるのに今回は急だな」と思う程度であった。 恵一郎は昼前に自宅を出たあと、車で2時間ほどの某県へと向かった。 この県は恵一郎が4年前に出向し土地勘があった。県の中心部には、大河がゆったりと流れている。出向していた頃には、まだ幼かった子どもを連れてたまに遊びに来ていた、懐かしく思い出深い川だ。 ゆったりとした流れに見えるが注意深く見ると、ところどころに急な水流が渦を巻いているのがわかる。今日は穏やかな顔を見せているが、雨が降った日には水量が増し、“暴れ川”の異名をとるだけの川である。 季節は晩秋で天気は快晴なものの、人気はほとんどなかった。橋のたもとの暗い河原に車を止めて、靴をそろえて車内に置き、準備していた遺書を上に置いた。 気がつくと、恵一郎は冷たい水の中でおぼれかけ、釣り人に必死に助けを求めていた。水をかなり飲み込んでおり、足にかすり傷を負っていたが、意識は保たれていた。 釣り人が警察に通報し、3時間ほどで慌てふためいた妻が現れた。警察からは勤務先への連絡と医者にかかることをすすめられ帰宅許可がおりた。帰りのレンタカーは妻が運転したが、妻と何を話したかの記憶は、恵一郎にはほとんどない。 ただただ、「このことが職場に知れたらどうしよう」「そうなったら、俺のキャリアはおしまいだ」という恐怖しかなかった。 不安を抑えようとしているうちに、どんどん呼吸が荒くなってきた。息を止めようにも、胸郭が勝手に動いてしまう。このまま肋骨がバラバラになって、死んでしまうんじゃないかという恐怖が襲ってきた。水でも飲めば治るかと思ったが、手がしびれてペットボトルの水も飲むことができない。目を見開いて泣きそうな顔をしている妻の顔が見えた。頼るのは、彼女しかいない。 精一杯声を振り絞って、「なんとかしてくれ!」と叫んだ。「病院に行こう、それしかないよ、恵ちゃん」ちょうど、長女が小児科でかかっている総合病院まで、あと20分ぐらいで着く。もう、そこに頼るしかない。