出張だと妻に偽り、川に身を投げた「キャリア官僚」 なぜ“ありえない妄想”に取りつかれてしまったのか
自殺未遂者はまず、精神疾患を疑われる
午前10時ちょっと前に、わたしの院内用PHSが鳴り響いた。 「先生に診ていただきたい患者さんがいるんですが……」 若い研修医の緊張した声で、患者の簡単な説明が行われた。昨夜パニック発作で救急搬送されたが、話を聞くと同じ日に入水自殺を試みたらしい。うつ病の可能性はあるか、精神科としての検査や治療が必要か、評価してほしいという依頼であった。 救急で自殺未遂者の精神疾患が疑われ、急な診察や対処を求められることは大きな総合病院ではよくあることだ。 恵一郎は、透明な点滴を受けながら、4人部屋の奥のベッドに横になっていた。ベッド脇には、妻が硬い表情で目を閉じてうつむいていた。 今現在の痛いところやだるいところ、食事や睡眠について簡単に尋ねたところ、恵一郎は落ち着いて答えることができた。 次にはやはり、自殺未遂という肝心の話題に触れざるをえない。 「場所を変えて、先生とだけ話したいのですが」 別室で、わたしと恵一郎だけが話すこととなった。たしかに、隣の患者には、聞かれたくないのももっともなことだろう。しかしそれよりも、わたしに伝えたい「何か」があるという意志が感じ取れた。
「自分には休息する価値もない」
「では、本題に入りましょう。宮崎さんは、どうして、どのような気持ちでこんなことをなさったんでしょうか?」 なるべく詰問調にならないように、彼の気持ちにも配慮しながら聞いてみた。悲しく不安そうな表情を浮かべながらも、恵一郎は一気に喋り始めた。 「わたしは、職場だけでなく、日本の行政にまで、はかりしれないダメージを与えてしまったんです。わたしのポカのせいで、もしかしたら会社が倒産し、あるいは路頭に迷って死んだ人もいるかもしれません。先生にはわからないでしょうが、行政のシステムというのは、小さなミスが大きな結果として表れるんです」 ここで「そんなことはありえないだろう」と否定してしまうのは、得策ではない。しかし、わたしの表情に、それはちょっと大げさだろう、という思いが出なかったといえばウソになる。それを察したのか、口調は静かで抑揚は乏しいながらも、恵一郎の言辞はエスカレートしていった。 「マスコミは、自分たちはいい給料をもらっておきながら、何かと言えば公務員叩きです。ただ、今回のわたしのミスは紛れもない事実で、格好のマスコミのネタです。だったら先手を打って、テレビや新聞に取り上げられるような死に方をしてやろうと思ったんです」 「今の自分の状態をどうお考えですか?」と尋ねると、恵一郎ははっきり「自分には生きている価値がありません」と断言した。 「わたしの考えでは、あなたは入院して少し休息したほうがいいと思う」 しかし、恵一郎は入院をはっきりと拒絶した。拒否の理由は、「入院すると先生にも、妻にも、職場にも迷惑がかかる」「自分には休息する価値もない」というものだった。 「また、自殺未遂をしてしまうのではと、わたしは心配です」と、もっとも重要な質問をしてみた。恵一郎はやや皮肉交じりに苦笑を浮かべて、「そんな先のことは、わかりませんね」と、余裕のない様子で答えるのみであった。 わたしは、恵一郎を精神科病棟に入院させ、治療を行う必要のあることを確信した。 *** この記事の後編では、引き続き『自分の「異常性」に気づかない人たち』(草思社)より、恵一郎が自殺未遂へと追い込んだ病気の正体や、家族のみならず当の本人に「病識」(=私は病気なのではないか、という意識)がなかった理由について解説する。
【著者の紹介】 西多昌規(にしだ・まさき) 早稲田大学教授、早稲田大学睡眠研究所所長、精神科医。1970年石川県生まれ、東京医科歯科大学卒業。国立精神・神経医療研究センター病院、ハーバード大学客員研究員、自治医科大学講師、スタンフォード大学客員講師などを経て、早稲田大学スポーツ科学学術院・教授。日本精神神経学会精神科専門医、日本睡眠学会総合専門医、日本スポーツ協会公認スポーツドクターなど。専門は睡眠医学、精神医学、身体運動とメンタルヘルス、アスリートのメンタルケア。著書に『眠っている間に体の中で何が起こっているのか』(草思社)、『休む技術』(大和書房)ほか多数。 デイリー新潮編集部
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