「この映画は『失敗例』」。統合失調症の姉と家族を記録した映画『どうすればよかったか?』監督が語る胸中
家族の様子を記録し始めた理由
―そもそも、なぜ家族の映像を撮り始めたのでしょうか? 藤野:まず本作はドキュメンタリー作品として撮り始めたわけではありませんでした。きっかけは大学卒業を機に、地元を離れ神奈川での就職が決まったこと。僕が実家を離れるとそこで起きていることは家のなかだけで完結してしまいますよね。だからその前に記録として残す必要があると考えて、姉の発症から9年後の1992年、まだ僕が大学4年生のころに録音機能のあるウォークマンで家のなかの音声を初めて録音しました。当時は、いつか医者に連れていく際に以前からこういう症状があったという証拠としての使い道を考えていたんです。 その後、紆余曲折あって日本映画学校で映画を学び、1998年に卒業しました。テレビやアニメの仕事を経て、家のことをビデオカメラで撮影し始めたのは2001年のこと。その段階でもドキュメンタリーとしては考えておらず、「ホームビデオとして撮影している」と家族には説明していました。 僕がドキュメンタリー映画を監督したのはアイヌの遺骨返還に関する2017年の短編『八十五年ぶりの帰還 アイヌ遺骨 杵臼コタンへ』が最初でした。学校で学んでいたんですが、このときようやく映画のつくりかたを理解したんです。家族の話をドキュメンタリーにしてもいいのかなと思ったのは、2008年に姉が病院で統合失調症であると診断され、治療を経て姉弟らしい会話ができた頃ですね。ようやく希望が見えてきたので。 ―いつ頃から本格的にドキュメンタリー作品としてまとめようと思ったのでしょうか? 藤野:内容が内容ですし、その頃、撮り溜めた映像は僕とプロデューサーの淺野由美子さんしか観ていなかったので、世の中にどう受け止められるのか不安に感じていました。そんなときに「山形ドキュメンタリー道場(2022年)」に参加する機会をいただきまして。どういう反応があるのか知りたくて、そこでアイヌのドキュメンタリーと一緒に家族の映像も提出してみたんです。そしたら想像以上にいろんな良い意見をいただいて、そこでようやくちゃんとしたドキュメンタリー映画としてまとめようと編集作業を進めていきました。 ドキュメンタリー作品を制作すると決めた段階で承諾を求める対象は父一人しか残っていませんでした。父に対しては確認しました。ドキュメンタリーを制作するうえで「承諾」はあったほうがよいと思いますが、「承諾」を得られなければ撮影できないとも考えていません。問題がある事実を隠したい人から「撮影を認めない」と言われても、諦めるべきでしょうか? 今回の場合、長い年月医療を適切に受ける権利を侵害され続けた姉の状況を記録するという客観的な理由があったと考えています。