アジアで続いたもう一つの“五輪”~幻の東京オリンピック前史(後編)
●日本開催の経験が後の64年東京五輪に活きる?
日本で開催されたのは第3回と第9回の東京大会と第6回の大阪大会である。この第3回大会は、日本で開かれた最初の国際的なイベントであった。万博に参加したことはあったものの主催はしておらず、ましてや数か国が関わる多国籍スポーツイベントの運営はまったく初めてだったはずである。おそらく「極東選手権競技大会」で運営ノウハウを獲得しなければ、日本でのオリンピック開催はずっと遅れていたに違いない。 ところでアメリカがフィリピン統治政策の一環として考えただけあって、「極東選手権競技大会」ではフィリピン人選手の活躍が目立った。野球、バレーボール、バスケが強かったが、圧巻は陸上競技だった。いまとなっては想像しづらいが、大正から昭和の初めにかけて、アジアの短距離界でフィリピン人選手は無敵だった。「極東の短距離王」の異名を欲しいままにしたフォルチュネイト・カタロンがアジアの短距離界で覇権を築き上げると、ネポムセノ、ゴンザガらが後に続き、日本や中国は手も足も出なかった。 この「極東の短距離王」カタロンだが、誰もが知っている「グリコのマーク」のモデルだと言われている(※ほかに1924年のパリ五輪に参加した谷三三五(たに・ささご)説やストックホルム五輪に出場したマラソンの金栗四三説など諸説あり)。カタロンは1917年の第3回大会と1923年の第6回大会で来日した。スタートの巧さとラストスパートで日本勢を引き離し、第6回大会では100ヤード走と220ヤード走で優勝を決めた。「カタロンには勝たれん」という洒落が流行り、日本でも人気者になった。 しかし「極東選手権競技大会」の命運は国際政治に翻弄された。決定打となったのは日本の「満州国」樹立であった。 1931年に満州国が誕生すると、中国との関係は完全にこじれた。そこにアメリカからの独立を目指すフィリピンの立場が影を落とす。 1934年のマニラ大会中に満州国の大会参加を求める日本が大会憲章の改正に手をつけると、中華民国側の委員が総退場した。そしてそのまま極東選手権大会は消滅してしまうのである。 2年後の1936年に1940年の東京オリンピック開催が決定するが、日中戦争の長期化による資材の逼迫(ひっぱく)、中国大陸での諸外国との利権争い、そして東京での開催決定に大きな役割を果たした嘉納治五郎の死などが引き金となって、政府は開催権を返上する。代替策として政府がぶち上げたのが「紀元2600年奉祝東亜競技大会(東亜競技大会)」である。満州国と中華民国臨時政府、そして日本という3か国だけの寂しい大会であった。 アジア初となる1964年の東京大会に至るまでの道のりは、文字通り紆余曲折を経ていたことが分かる。小説家・押川春浪が「オリンピックの瀬踏み」と言って「天幕旅行運動会」を開催してから、じつに56年もの年月が必要とされたのだった。
------------------------------- ■檀原照和(だんばら・てるかず) ノンフィクション作家。法政大学法学部政治学科卒業。近現代の裏面史などを追う。著作として単著に『ヴードゥー大全』(夏目書房)、『消えた横浜娼婦たち』。共著に『太平洋戦争―封印された闇の史実』(ミリオン出版)