アジアで続いたもう一つの“五輪”~幻の東京オリンピック前史(後編)
IOCではなくYMCA 主導の「東洋オリンピック」
ところで「天狗倶楽部」が輩出したのは、オリンピアンだけではない。次に取り上げる「東洋オリンピック」にも、三神八四郎(みかみ・はちしろう)というテニス選手を送り出しているのだ。《三神は日本における硬式テニスの導入を最初に提言した人物で、早稲田大学の「三神記念コート」に名前が残っている。東洋オリンピックには第3回大会(1917年)と第4回大会(1919年)に出場し、前者はダブルスで後者はシングルスで優勝を果たしている》。 実は20世紀の初頭には、IOC 以外にも“オリンピック”を運営する組織が存在していた。キリスト教青年会(YMCA)である。彼らが主導したのが「東洋オリンピック(極東選手権競技大会 The Far Eastern Championship Games)」だ。 戦前の段階では、IOCとYMCAは近代五輪の主導権争いを演じており、現在のようなIOCの絶対的優位性は確立していなかった。 「東洋オリンピック」は1910年にフィリピンのYMCA体育主事に就任したアメリカ人エルウッド・ブラウンによって提唱された。19世紀末にフィリピンを手中に収めアメリカ化を推進していた米国は、反米感情に手を焼いた。そこでスポーツ振興に力を入れ、強い選手を育てることで統治をスムーズにするという手法を考え出した。そのためには他国と争い、勝たなければならない。そこでフィリピン、中国、日本による3か国競技大会を開催しようと考えたのである。 アメリカ人は極東オリンピック協会の設立を目指したが、IOC委員であり大日本体育協会の会長でもある嘉納治五郎は消極的であった。 その理由として (1)フィリピンと中国ではYMCA幹部のアメリカ人が主導権を握っている。 (2)キリスト教の宣伝に利用されている。 (3)IOC主催のオリンピックで間に合っている という3点を挙げた。 しかし皮肉と言うべきか、IOC主催の東京オリンピックよりもYMCA主催の「東洋オリンピック日本大会」の方が先に実現してしまうのだ。 東洋オリンピック第1回大会は1913年にマニラで開催されている。このとき本家オリンピックのクーベルタン男爵からクレームを付けられたため、以降は「極東選手権競技大会」と改称。ただし日本国内では、これ以降も「極東オリンピック大会」という愛称で呼ばれ続け、隔年開催の形で第10回(1934年)まで開かれた。 フィリピンではYMCAのアメリカ人職員の指導を受けた現地人が指揮を執り、中国でも外国から派遣されたYMCA職員が指導するなど、東洋人主催の大会とは言いがたい側面があった。しかし何度か日本で開催されるうちにアメリカ色が払拭され、アジア人の手による大会へと変わっていった。