アジアで続いたもう一つの“五輪”~幻の東京オリンピック前史(後編)
この五輪派遣選手選考会で、押川春浪と嘉納治五郎は何らかの関係を持っていたのではないかと推察される。こう考える根拠は二つある。 (1)羽田運動場は押川が主催するスポーツ社交団体「天狗倶楽部」のホームグランドであり、押川はこの運動場の創設にも関与していた。 (2)押川と嘉納の家柄の関係からも間接的な接点があったと考えるのが自然である。 (3)この選考会を経て初めてオリンピックに出場した日本人選手の中に「天狗倶楽部」のメンバーがいた。 (1)だが、当初この運動場は野球場として建設された。押川が「天狗倶楽部」の仲間で京浜電鉄の電気課長でもあった中沢臨川(なかざわ・りんせん)に働きかけ、中沢が社の上層部に掛け合い実現させたのだという。阪神電鉄による甲子園球場建設に先駆けること15年という画期的な事業だった。 ストックホルム五輪の選考会のとき、音頭をとったのは嘉納治五郎である。羽田運動場内の自転車練習場だった場所を400メートルトラックと競技場に改修し、日本人最初のオリンピック選手である三島弥彦と金栗四三を選出した。詳細は不明だが、この予選会の運営に天狗倶楽部が関与していた可能性がある。 (2)については、「日本野球の父」と言われる安部磯雄(早稲田大学野球部創設者)は、押川の父と親交のある人物だった。と同時に、押川の弟は早稲田大学野球部の3代目主将である。この線から押川とも面識があったと考えられる。 その安部は嘉納治五郎らとともに大日本体育協会を創立し、嘉納を助けてストックホルム・オリンピック大会の国内委員も務めている。 (3)だが、ストックホルム大会に派遣された選手は2人いた。短距離走の三島弥彦(みしま・やひこ)と長距離走の金栗四三(かなくり・しぞう)である。このうち、三島は押川が主催していたスポーツ団体「天狗倶楽部」の所属選手だった。 三島はスポーツ万能であったことから『冒険世界』の読者からの人気も高く、「痛快男子十傑投票」という読者投稿企画では、運動家部門で1位に選ばれている。 こうした縁から在野の立場からオリンピックに関心をもつ押川と、IOC委員という立場からオリンピックに関わった嘉納という本来であれば相容れない両者に、何らかの交流があったのではないかと思われるのである。 なお『冒険世界』の「日本の快男児100人」という記事で嘉納治五郎のことが言及されているが、嘉納が押川に言及した記録は残っていない。