「恩返しが何もできていないので」箱根駅伝で“伝説の17人抜き→40年ぶり予選落ち”の波乱万丈…東海大・村澤明伸(33歳)が今も現役を続けるワケ
青学大の連覇で幕を閉じた101回目の箱根駅伝。一方で、その舞台に箱根路の常連である“湘南の暴れん坊”東海大の姿はなかった。昨秋の予選会でアクシデントもあり、まさかの予選落ちを喫したからだ。実はその12年前、最後に同じ悔しさを味わったのは、あの“17人抜き”の伝説のエースが主将を務めた年でもあった。33歳になった本人が振り返る、かつての記憶とは。《NumberWebインタビュー全3回の3回目/最初から読む》 【貴重写真】あの2011年箱根駅伝2区「伝説の17人抜き」が写真で甦る…「全然変わってない!」33歳になった“ごぼう抜き男”村澤明伸の現在も写真で見る(30枚超) 「後輩たちが箱根の走路員をやってきて、1月3日が終わって寮に帰ってきたんです。その姿を見たときですね、ハッとしたのは……」 2012年に東海大の駅伝チームで主将を務めた村澤明伸(現SGホールディングス)は、40年ぶりの箱根駅伝予選落ちに終わった「重み」を実感した瞬間を、そう振り返った。 走路員は予選落ちした大学を中心に編成され、レース当日に沿道の整理などに当たる。歓声を浴びる選手たちから背を向け、観客が道路に飛び出さないように目をこらすのが主な役目だ。まるでスポットライトの内と外のように注目度が異なる。悔しさに唇を噛み、そこで涙をこらえた選手もいたことだろう。
寮から消えた「箱根駅伝のお祭り感」
結果はどうであれ、3日の寮はいつも賑やかだった。村澤が「箱根駅伝の醸し出すお祭り感は、ワクワクする緊張感で他の競技会にはないものだった」と振り返るように、選手はこの日のために努力を積み重ねてきたのだ。力を出し切れた者、出し切れなかった者、それぞれが箱根から持ち帰った経験を語り、思いが受け継がれていくのが強豪校の伝統である。 だが、その年は、誰もが出場できなかった悲しさに打ちひしがれていた。 そんな後輩たちの姿を見るのは、村澤も初めてのことだった。 「そのとき思ったんです。自分たちは何も残せなかったんだなって。むしろ、後輩たちに背負わせてしまった。私たちは卒業してしまうけど、後輩たちは予選落ちした1年をこれから過ごしていく。そのことが胸に刺さりましたね」 最後の箱根駅伝では同級生の早川翼が関東学連選抜のメンバーに選ばれ、2区を走った早川の給水役を村澤が務めた。そのため走路員として沿道に立つことはなく、わずか50mほどではあったが、箱根路を駆けることができた。つねに良きライバルとして切磋琢磨してきた親友の背中を、村澤はどのような思いで見送ったのだろう。 「早川とは4年間ずっと一緒で、共に強くなってきた思いがあったので、最後にああやって形に残せたのは良かったです。ただ、選手として見たとき、やっぱり自分が走れなかった悔しさもありました。それにチームとして見たときは、先ほど話したようなやりきれなさも感じた。自分の中でも色んな感情があって、だからこそ簡単に整理はつかなかったです」
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