「恩返しが何もできていないので」箱根駅伝で“伝説の17人抜き→40年ぶり予選落ち”の波乱万丈…東海大・村澤明伸(33歳)が今も現役を続けるワケ
「仲間に恵まれた」…キャプテンへの向き不向き
主将としての1年間には悔しさも残る。だが、4年間を振り返ったとき、村澤の中に掛け替えのない充実感があるのもまた事実である。 「高校の時からそうなんですけど、私はほんと仲間に恵まれていて、早川以外の同級生にもすごく助けてもらいました。松谷(公靖)や溝上(翔太)、もちろん早川もそうですし、彼らには仲間や後輩を惹きつける求心力があるんです。キャプテンの向き不向きを考えたら、彼らにやってもらっていたらどうだったんだろうって。キャプテンってそもそもそういう人がなるのかなって、思うところはあります(笑)」 走る才能は傑出していた。ゆえに、監督も村澤には「世界」を意識させた。その思いに応えようと、村澤もできるかぎりの努力をしてきた。反省こそあれ、4年間に後悔がないのは、全力で走ることを究めようとしてきた証しだろう。 村澤は当時、専門誌(『月刊陸上競技』2013年3月号)のインタビュー記事にこんな言葉を残している。 「予選会を欠場するという判断が正しかったかどうかは、今後の自分次第だと思います。僕にとっても、東海大にとっても、今回のことをプラスにしていかないといけません。箱根駅伝で40年続いたタスキは自分たちの代で途切れさせてしまいましたが、後輩たちには過去の先輩方が築いてくれた伝統を大切にしながら、新しい東海大を作ってもらえたらと思います」 あれから12年近くが経った。あの時の判断が正しかったのかどうか、答えは出たのだろうか? 「難しいですね……。もしかするとその答えは、競技者として第一線を終えたときにわかるのかもしれないです。それにしたって自分の中での答えでしかないですし、例えば同級生や後輩、両角(速)先生、OBの方々、きっと答えはそれぞれ違うと思うんです。だからもし『あの予選会は走っておかないといけなかった』という方がいても、それを受け入れたいなって思います」 ひと呼吸おいて、こう続ける。 「先ほど話したように、自分で選択をしていないんですよ。なので、もしかしたら正解も間違いも、このまま見いだせないままなのかもしれません。この先に答えがあったら良いなとは思いますけどね」 大学4年で痛めたアキレス腱の影響で、実業団に進んでからも村澤は苦しんだ。いったんアキレス腱炎は完治したものの、また別の箇所を故障するという悪循環もあり、オリンピック出場は果たせないままだ。この間に厚底シューズも登場したが、5000m、1万mの自己ベストも、学生時代の記録から更新できずにいる。
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