蔦重が生まれ育った「吉原」の歴史
■幕府の財政難により客が激減し、客層の中心は町人へ ところが、幕府や諸藩が財政難に陥るようになると、状況は一変。吉原で遊ぶ大名らが激減する。代わりに経済的に潤う町人が吉原の主要な顧客になっていった。吉原は、大衆化の方向に舵を切らざるを得なくなったのだった。 揚屋で飲み食いし、妓楼(ぎろう)に所属する遊女を呼び出す揚屋制度は、客の負担する飲食代が相当な大金となるために廃止され、遊女たちの最高位となる太夫(たゆう)という地位も撤廃。格式・伝統と大衆化という、相対するものの狭間に立ちながら、吉原は生き残りを賭けて、生まれ変わろうとしていた。 一方、吉原の衰退を尻目に、非公認の売春街である岡場所や品川、内藤新宿といった宿場の女郎屋が台頭している。吉原より安価だった上に、格式や伝統とは無縁だったため、気軽に遊べると客が流れていたのである。 1750(寛延3)年に生まれた蔦重の育った新吉原は、こうした苦境に立たされていた。蔦重は、かつての華々しい吉原の輝きを取り戻そうと、さまざまな試行錯誤を重ねていくこととなる。
小野 雅彦