蔦重が生まれ育った「吉原」の歴史
1月5日(日)放送の『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第1回「ありがた山の寒がらす」では、蔦屋重三郎(通称・蔦重/横浜流星)が吉原再生に奔走する姿が描かれた。蔦重は、町場の者の話にも真摯に耳を傾けるという老中・田沼意次(渡辺謙)に吉原の窮状を訴えたが、返ってきたのは意外な言葉だった。 ■飯を食えない女郎のために蔦重が駆け回る 明和9(1772)年に江戸で起こった大火から復興した吉原で、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう/通称・蔦重)は茶屋の仕事の傍らで貸本屋を営んでいた。 仕事のさなか、蔦重は浄念河岸の女郎・朝顔(愛希れいか)のもとに向かう。松葉屋の花魁(おいらん)で蔦重の幼馴染である花の井(小芝風花)は、朝顔に弁当と薬を届けさせるお使いを蔦重に頼んだ。 浄念河岸は吉原の場末で、揚代が安いにもかかわらず客足は遠のき、生活環境は最悪の状態だった。朝顔は体を壊し、ほとんど寝たきりとなっており、蔦重の本の読み聞かせを心から楽しみにしていたのだった。 ところがその翌日、朝顔は死んだ。蔦重は、その遺体を前にして、自分を慕う唐丸(渡邉斗翔)に、朝顔との縁と自分の生い立ちを涙ながらに語るのだった。 朝顔のような河岸見世の女郎が食うに困る暮らしをする一方、女郎屋(じょろうや)や引手茶屋(ひきてぢゃや)の主人たちが豪勢な食事で会合を開くのに憤る蔦重は、吉原に客を呼ぶために走り回る。そんななか、ひょんなことから老中・田沼意次(たぬまおきつぐ/渡辺謙)に意見する機会を得た。 田沼から吉原に客を呼ぶ工夫が足りないと指摘された蔦重は、思案を重ねた末に吉原の案内書「吉原細見」を手に取り、活路を見出したのだった。
■移転、隆盛、衰退と時代の波に翻弄されていた吉原 1590(天正18)年に徳川家康が入府したことにより、江戸は急速に発展した。旗本や御家人、労働者らが全国から流入し、人口が爆発的に増加。都市の発達とともに江戸に遊女屋が発生したのは、上方や駿河で遊女屋を営んでいた者らが、発展を遂げる江戸で一旗揚げようとしたことも関係している。当時の江戸の男女比率は男性が6割ほどと多く、そこに商機を見出したらしい。遊女屋の営業について、家康も半ば放任するような発言も残している(『事跡合考』)。 そんななか、1612(慶長17)年に庄司甚右衛門(しょうじじんえもん)が、幕府に遊郭の設置を申請。これを受け、1618(元和4)年に2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)の治世において、公許の遊郭としてスタートしたのが「吉原」である(前年に開始されたとする説もある)。 開業が許可された場所は「葦屋町之下」で、現在の東京都中央区日本橋人形町付近だった。葭(よし)や葦(あし)が生い茂った湿地帯だったことから、この地は「葭原」と呼ばれており、後に縁起のいい「吉」の字を用いた「吉原」に改称されたという。 江戸の発展がますます盛んになると、吉原周辺にも人家が急増する。吉原開業から約40年が経った1656(明暦2)年、風紀の乱れや治安の悪化を懸念した幕府は吉原に対し、移転を持ちかけた。 代替地として幕府が提案したのが、江戸の中心地から離れた、台東区千束(せんぞく)だった。当時は田畑の広がる寂しく辺鄙(へんぴ)な土地だったようで、反発する声を想定した幕府はいくつかの条件を提示している。町割りを5割程度増やす、1万500両の移転代金を負担する、などである。 こうして、およそ2万坪という敷地に、新たな吉原が建設された。敷地の周囲は遊女の逃亡を防ぐためにお歯黒どぶと呼ばれる堀が張り巡らされ、原則的に唯一の出入り口となった大門が設置された。常駐の番人が配置されるなど、厳しい監視下のもと、吉原は再開した。なお、移転前の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」という。 不便な場所だったにもかかわらず、新吉原には多くの客が詰めかけ、大繁盛となった。元吉原では禁止されていた夜間営業が認められたことや、元禄年間(1688~1704年)の好景気などが相まって、身分の高い武士や豪商らがこぞって豪遊をしに訪れるようになったからだ。富裕層相手の商売として繁栄する吉原には、次第に格式や伝統が確立されていった。