チャペル・ローンが語る、ポップの超新星が歩んできた「茨の道」
成功に至るまでの長く険しい道のり
豊かな自然と保守的なコミュニティで知られる中西部のオザーク山地の中央に、ウィラードというミズーリ州の町がある。この町の人口は、最近になって6500人を僅かに上回った。ケイリー・ローズ・アムスタッツは、1998年にこの町で生まれた。彼女がチャペル・ローンと名乗るようになるまでは、ケイリーの高校は2人のオリンピック選手(バレーボールと陸上競技)を輩出したことで知られていた。獣医の母親と看護師の父親の間に彼女が生まれたとき、2人はともに23歳で大学生だった。4人きょうだいの長女のケイリーは、怒りっぽく、落ち込みやすく、反抗的で、感情的で、他人を弄び、意地悪だった自分に両親が手を焼いていたことを自覚している。「子供の頃はずっとひどく惨めだった」と彼女は言う。彼女は親に口答えし、問題を起こしてばかりいた。「父も母も、できるだけのことをやるしかなかった」。 彼女が双極性障害II型と診断されるのは何年も後のことだ。それが判明していなかった10代の頃、少なくとも彼女はその症状を緩和する手段を把握していた。彼女は自然を愛し、工作が好きだった。また彼女はアスリートでもあり、ランナーとして州レベルの大会に出場し、クロスカントリー選手として大学に進学する寸前だった。当時のケイリーは著しく内向的で、自分で服を作るような少女だったが、クラスの変わり者たちのコミュニティさえ馴染めなかった。「私は変人で、すごくシャイで自意識過剰で、引っ込み思案だった」と彼女は言う。「だからこそ、ポップミュージックを作り始めたときの揺り戻しは大きかった。子供のままの内なる自分を解放しないといけないと思ったの」。 13歳のとき、タレントショーに出場して初めて人前で歌った彼女は見事優勝し、翌年もその座を守った。その2年後に、彼女は初めて曲を書く。それは好きな男の子についての曲だった。2人は信仰心が重んじられる中西部における「宿命の恋人」のような関係だった。彼女は無宗派のクリスチャンであり、彼が育った敬虔なモルモン教徒の家庭では、信仰の異なる女性と付き合うことがよしとされなかった。彼が宣教に出る準備をするなか、胸を痛めていた彼女は張り裂けそうな思いを5分間の「退屈なバラード」に込めた。 モルモン教徒の彼との恋はうまくいかなかった。「あいつは本当にひどいやつだった」と、今となっては彼女は認める。「すごく意地悪だった」。彼が宣教に出た後も、彼女は曲を書き続けた。そしてある日、自分にその才能があることに気づいた。 チャペル・ローンの誕生のきっかけは、2014年の夏に太平洋岸北西部の森の中で行われたキャンプだった。当時10代だったケイリーは、音楽や映画に興味のある才能豊かな子供たち向けのプログラムに参加した。キャンプのディレクターが振り返るところによれば、彼女にはほとんど指導の必要がなかったという。「彼女はすでに、レノン=マッカートニー級の作曲スキルを持っていました」と彼は振り返る。 彼女はその夏、ロード以降のサッドガール・ポップど真ん中の「Die Young」という壮大な曲を書き、YouTubeに投稿した。26歳になった今、彼女はそれを「地球上で一番ダサい曲」と評している。ダサいかどうかはともかく、「Die Young」は然るべき人々の目に留まった。数カ月のうちに、レーベルの幹部たちはショーケースやミーティングを企画して彼女と両親を飛行機で呼び寄せるようになった。彼女は17歳でAtlantic Recordと契約し、2016年には本名ではなく「チャペル・ローン」と名乗ることを決意する。この新しい名前は、亡くなった彼女の祖父デニス・K・チャペルと、彼が好きだったカーリー・フレッチャー作の有名なカウボーイバラード「The Strawberry Roan」から来ている。 2年間にわたって、ローンと彼女の家族は、レコーディングやミーティングのたびにミズーリからロサンゼルスやニューヨークへ飛んだ。ローンは高校の最終学年を丸ごと欠席し、プロムや卒業式にも出なかった。そして19歳になった2017年、彼女のムーディなデビューEP『School Nights』が満を持してリリースされた。その翌年には、ローンは単身でロサンゼルスに移住することを決意。彼女はその街で、クィアの女性として堂々と生きるようになる(最近ではレズビアンであることをカミングアウトしている)。「ここでは本当の自分でいられると感じる」と彼女は2022年に語っている。「それですべてが変わった」。 人として成長する一方で、彼女のキャリアは停滞気味だった。新しく雇ったマネージャーのニック・ボベツキーに、彼女は「もううんざりするほど落ち込む曲を作ったり歌ったりしたくない」と語ったという。彼女がやりたかった音楽、それはパーティーで映えるようなものだった。2018年、ボベツキーは彼女にダン・ニグロを紹介する。ロックバンドのAs Tall as Lionsの元ボーカリストである彼は、オリヴィア・ロドリゴ、スカイ・フェレイラ、カーリー・レイ・ジェプセン、カイリー・ミノーグの楽曲にも携わるソングライター兼プロデューサーだ。ニグロは2018年10月に自身のスタジオで初めてローンに会った時の印象について、「最初のうちはとてもシャイだった」と語っている。彼はその場で、しばらく温めていた「すごく幻想的なコード」をギターで弾いた。ローンがそれを気に入ったため、ニグロは短いループを作った。「彼女は何も言わず、1時間くらい黙々とノートに何かを書き込んでいた。好きなようにやらせようと思ったんだ」と彼は話す。やがて彼女はノートから顔を上げ、マイクの前に立ち、「Love Me Anyway」として世に知られることになる曲を歌い始めた。 翌年、ローンとニグロは彼女が思い描いていた大胆なポップ路線への移行を後押しする楽曲をさらに2曲制作した。特に「Pink Pony Club」は大きな転機となる曲だった。ニグロもローンも、この曲が幅広い層に届くと確信していた。しかし、ローンによれば、Atlantic Recordはこの曲のリリースを思いとどまらせようとしたという。「すごくショックだった」と彼女は振り返る。「自分の判断に自信が持てなくなってしまったの」。 ローンとニグロは「Pink Pony Club」を出すべきだと訴え続け、最終的に同レーベルは2020年4月に曲をリリースした。しかし、ローンの新たなポップ路線への反応は当初こそ好意的だったものの、彼女のキャリアを支え続けるほどではなかった。その夏、パンデミックで業界全体が苦境に立たされる中、Atlanticは彼女との契約を解消した。