日本初の女性新聞記者【羽仁もと子】のデビューは賢夫人の誉れ高い谷干城の妻のインタビュー
女性雑誌『婦人之友』や、家計簿、さらには自由学園の創設者としてその名を知られている羽仁(はに)もと子。彼女は、日本初の新聞記者だった。 名将加藤清正(かとうきよまさ)が築いた名城といえば? 肥後熊本の熊本城である。熊本城は明治10年(1877)に起きた西南戦争の戦場となり焼失した。城を守る側の司令官谷干城(たにたてき)の妻久満子(くまこ)は、夫とともに籠城し、炊き出しを行った。戦後は貴重な外貨獲得のため奨励されていた養蚕に乗り出し、それで得た金を娘の嫁入り費用にしたり、寄付したりしたという当時の賢夫人の1人とされていた人物である。 明治30年(1897)7月4日、『報知新聞』に掲載された谷久満子へのインタビュー記事が、日本初の女性新聞記者のデビュー作だ。執筆者は松岡もと子。明治6年(1873)、青森県八戸市で4人兄弟姉妹の長子として生まれた。幼い頃から勉強ができ、当時の女性としては珍しく、東京に出て東京府立第一高等女学校(現東京都立白鴎高等学校)を卒業。さらに勉強を続けたいと熱望したが、官立の学校には落ちてしまった。弟たちのことを思うと、もと子には金のかかる私立への進学をためらわれた。そこで、私立明治女学校校長の巌本善治(いわもとよしはる)に自分の思いを手紙に認めた。巌本はもと子の入学を認め、自分が発刊する雑誌『女学雑誌』を手伝わせて、その給与を学費や寮費に宛てるよう計らった。 苦労して入った学校ではあったが、もと子は翌年の夏休みに故郷に帰ったまま、東京には戻らず、地元の学校教師となった。この頃結婚を考える男性と出会ったが、相手は仕事の関係で関西に行ってしまう。家族を説得して結婚したが、離れていた期間に溝ができてしまい、わずか半年で離婚となった。 もと子は半年で離婚したことを恥じて故郷に帰らず、再び上京して、東京女子医科大学を作った吉岡弥生(よしおかやよい)の書生となった。その後、報知新聞社の校正係の募集に応募する。しかし、女性だと門前払いになると男性に頼まれたと嘘をついて履歴書を会社に持って行き、その場で頼み込んで試験を受けさせてもらう。もと子は、『女学雑誌』で校正を経験していた実力を認められて採用となった。 しかし、もと子がなりたかったのは、校正係ではなく、新聞記者だった。『女学雑誌』で、記事を書いたことがあり、それで文章を書く楽しさを知ったのだ。吉岡弥生に谷久満子を紹介してもらって、話を聞き、それを記事にまとめ先輩記者に見せたところ掲載され、念願の記者となった。この後も彼女が企画して取材した記事は反響を呼んだという。 明治33年(1900)、そんな彼女の前に、羽仁吉一(はによしかず)という新人記者が現れた。どっしりと構えたところがあり、もと子よりも7つも年下には見えなかった上、入社の翌年には編集長に就任するほど有能だった。明治34年年末に2人は結婚。しかし、当時は、結婚した者同士が同じ会社にいることができず、2人とも退職することになった。 知り合いのところで婦人教育雑誌の手伝いをしているうちに、家庭雑誌をやらないかという申し出があり、吉一と明治36年(1903)4月3日、『家庭之友』という雑誌の第1号を創刊した。現在の『婦人之友』の前身である。2人は新しい家庭を作ったばかりで、その上発刊の翌日に長女が生まれて親にもなった。世の中には新米夫婦や親が多いはずだ。そうした人々のために優れた経験や知識を紹介する。このコンセプトのもと、雑誌の主筆となったもと子は、思うぞんぶん記事を書くことができた。 第2号ではまだ一般的ではなかった子供の洋服の型紙をつけた。また、明治になって、毎月給与を貰う人が増え、それまでとは違う家計の運営のため計画的に金を使うことを提案、そのためのツールとして家計簿をつけることを提唱した。よりよい日常生活を送るために様々なことやものを提案する女性雑誌にはこれまでにはなく、雑誌であるにも関わらず何度も増刷するほど批評となった。 さらに、読者の子どもたちに雑誌が提唱する教育を受けさせる場として大正10年(1921)、学校を創立。これが現在の自由学園で、読者の子弟26名が1期生として入学した。当時日本に滞在していた世界的建築家のフランク・ロイド・ライトに校舎の設計を依頼。完成した建物は、自由学園明日館として今では国の重要文化財の指定を受けている。 もと子が書き続けるために、編集者として、会社の経営者として、また夫として子どもたちの父親として支え続けた吉一が昭和30年(1950)に亡くなったことが相当こたえたようで、目に見えて弱っていった。2年後の昭和32年4月7日、83歳の生涯を閉じた。
加唐 亜紀