教育現場にも見られる「マジョリティ特権」の弊害 権力に近い人ほど気づきにくい「構造的差別」
不公平な社会構造、まるで「透明な自動ドア」
──マジョリティ性が多いと、やはりマイノリティの人がどう感じているかということに気づきにくいのでしょうか。 マジョリティの特権は、いわば「透明な自動ドア」のようなもの。自動ドアはセンサーで人を検知して開きますが、今の社会はマジョリティに対してドアが開くような構造になっています。 目的地に向かって歩くとき、マジョリティ性が多い人は透明なドアが自動的に次々と開くので、どんどん前に進むことができます。たまたま権力に近い属性を持っているから「センサーが自動ドアを開けてくれる」という恩恵を受けられているのに、「ここまで到達することができたのは、自分の努力の結果である」と捉えてしまいます。ドアがあることにも気づきません。 一方、マイノリティ性が多い人の場合は自動ドアが開かず、努力してもなかなか前に進めません。ドアを自力でこじ開けなければならないなど、負荷がかかるため、センサーが不公平に働く社会構造に気づくんですね。 つまり、行く先を難なく進めるかどうかは、その人の努力だけではなく、構造に由来するのですが、ずっとマジョリティ側にいるとその構造に気づかないんです。 ──そうした社会構造がさまざまな差別を生んでいるのですね。 心理学的には、差別には「直接的差別」「制度的差別」「文化的差別」の3つの形態があるとされています。 直接的差別とは、その人の属性を理由に他人を侮辱したり排除する言動を行うもの。個人から個人への差別ですね。制度的差別は、法律や教育、政治や企業などの制度の中で行われます。決定権が権力に結びついており、ある集団が不利な立場になってしまう差別です。そして、文化的差別は、ステレオタイプや固定観念、社会規範など、人々が共有しているものです。 マイノリティが受けるステレオタイプによる差別の例を挙げましょう。私がアメリカの学校に通っているとき、いつも「アジア人としてどう思う?」「日本人の意見を聞かせて」と言われました。白人のクラスメイトは「○○さんはどう思う?」と個人としての意見を聞かれ、「白人としてどう思う?」とは聞かれないのに。このように属性で一括りにされ個人として扱われないことは、いろいろな場面で起こります。 先日もこんなことがありました。本学のある講義で企業の方が講師としていらっしゃったのですが、その方が車椅子ユーザーだったため、ある学生は「きっと障害に関する話をするのだろう」と思ったそうです。しかし、その方は障害にはいっさい触れず、まったく違う自身の業務内容についてお話しされたため、学生は「自分がステレオタイプで相手を見ていたことに気づいた」と言っていました。