『ガールズ&パンツァー』でも話題の「クリスティー式サスペンション」を発明した天才エンジニアが辿った苦難の道! 戦車開発がブレイクスルー
米陸軍総参謀長に性能が認められ採用を賭けた公式テストに臨むが……
1928年10月、バージニア州フォートマイヤーの陸軍施設でM1928のデモンストレーションが行われた。そして持ち前の速度性能と悪路走破性を披露し、見学に訪れていた陸軍参謀総長のチャールズ・P・サマーオール中将ら米陸軍首脳陣を驚愕させた。さっそく彼らは陸軍の諮問機関である歩兵戦車委員会に採用を前提とした公式テストの実施を要請した。 チャールズ・P・サマーオール(1888年年3月4日生~1955年5月14日没) 陸軍士官学校を卒業後、少尉として第一歩兵連隊に任官。その後は砲兵に転科し、米西戦争や米比戦争、第一次世界大戦と戦った。大戦戦後は第一師団長、ハワイ方面軍司令官などを歴任し、1924~1926年まで陸軍参謀総長を務めた。卓越した戦略眼と優れたリーダーシップにより、当時の米陸軍内では尊敬を集めた人物だった。 ところが、同委員会は旧来からの戦車の姿に拘泥しており、「戦車とは歩兵支援のための兵器であり、防御力と火力こそが不可欠なもので、速度性能など無用の長物」として採用に難色を示した。 これに対してクリスティーは「将来の陸上戦闘は、戦車を中心とする機械化部隊が敵陣深く侵入し、短時間のうちに敵の弱点である戦略的要衝や補給拠点を撃滅することで戦いの趨勢は決する。そのため新型戦車に必要となるのは火力や装甲ではなく圧倒的な機動力なのだ。いやしくも戦争のプロである軍人がなぜそのことがわからない?」との自説を展開した。これは約10年後にナチス・ドイツが第二次世界大戦で実践した「電撃戦」の戦略構想そのものだった。 だが、第一次世界大戦の塹壕戦の記憶がまだまだ冷めやらぬ時代のことだ。この当時、電撃戦に理解を示していたのは、機甲戦という新たな軍事ドクトリンを提唱した英陸軍人であり軍事学者であったジョン・フレデリック・チャールズ・フラーや、その影響を受けて第二次世界大戦で世界に先駆けて電撃戦の実践者となったドイツのハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン、マルヌ会戦やヴェルダンの戦いの研究から陸軍の機械化を提唱していたフランスのシャルル・ド・ゴール(のちの第18代フランス大統領)、そして先の大戦で戦車部隊を指揮した経験を通じて早くから戦車の真価を見抜いていたアメリカのジョージ・S・パットンくらいのものだった。 歩兵や騎兵、砲兵を主力とする前世紀から続く戦略思想が未だに信奉されていた各国の陸軍では、大多数の軍人にとって戦車は所詮補助兵器であり、電撃戦構想は取るに足らない机上の空論に過ぎず、軍の秩序と伝統を蔑ろにする危険な思想として白眼視されていた。 ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー(1878年年9月1日生~1966年2月10日没) イギリスの軍人であり軍事学者。参謀将校であったフラーは、第1次世界大戦に戦車部隊の作戦将校として勤務した。大戦後は陸軍省内で戦車のバトルドクトリン(戦闘教義)について研究を進め、1926年に参謀本部軍事顧問として戦車戦術に関する論文を多数執筆。「電撃戦」の基礎理論を構築する。1933年に軍から退役すると英国ファシスト連盟に所属して政治家を目指したが落選した。 ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアン(1888年年6月17日生~1954年6月14日没) ドイツ軍人。第二次世界大戦時の緒戦を自身が提唱した「電撃戦」を用いてポーランドとフランスを打ち破り、勝利して「ドイツ機甲部隊の父」と呼ばれた機甲戦術の先駆者である。しかし、独ソ戦が始まるとヒトラーと対立して予備役となる。大戦末期に陸軍参謀総長として復活するが、首都ベルリンが危機的状況にもかかわらず、ハンガリーへの戦力投入に固執するヒトラーに反対して解任された。戦後はイギリスの軍事評論家リデル・ハートの勧めもあり、回顧録『電撃戦』を執筆して世界的なベストセラーとなった。彼が戦車に求めた「厚い皮膚より速い脚」との言葉は『ガールズ&パンツァー』の作品内でも用いられている。 シャルル・ド・ゴール(1890年年11月22日生~1970年11月4日没) フランス陸軍の軍人であり、第二次世界大戦後に第18代フランス大統領に就任。陸軍士官学校卒業後、フィリップ・ペタン(第二次世界大戦期におけるヴィシー政権首班)指揮下の歩兵第33連隊への勤務から軍歴をスタートさせる。第一次世界大戦では「ヴェルダンの戦い」でドイツ軍の捕虜となり、捕虜収容所で同室となったミハイル・トゥハチェフスキー(のちに赤軍元帥。旧ソ連軍の近代化に尽力するもスターリンの大粛清で銃殺刑となる)と同室になり、共同で戦車戦術の研究を始める。大戦後、ポーランド軍事顧問を経て、フランス陸軍大学校に入学。かつての上司であったペタンの推薦を受けて陸軍の教育を担当する。独仏戦では新編された第4機甲師団の師団長として戦車の集中運用で侵攻軍に立ち向かうが、母国の敗戦を受けてアフリカに逃れ、自由フランス軍を組織して枢軸国と戦った。 こうした世相の中で一介の技術者であったクリスティーが、新型戦車のプレゼンを通じて電撃戦の戦略思想を大上段にブチ上げたのだから軍との軋轢が起こらないはずがない。 歩兵戦車委員会はM1928の装甲の薄さと火力不足を主な理由としつつ、米陸軍の戦車採用基準に達していないとしてクリスティーを最初から退けようと考えていた。 しかし、軍の権威を重んじる同委員会では、彼をあからさまに門前払いして陸軍参謀総長の顔を潰すような真似をすることも躊躇された。両者は喧々諤々の議論を重ねた結果、頑固なクリスティーもわずかに譲歩して装甲と火力の改良を約束したことから、最終的にM1928の採用は見送られたものの、改良型の再審査を行うことで両者はひとまず合意に至った。 こうして5万5000ドルの予算がつけられ、1930年から改良型戦車の開発が始まった。この戦車こそが「クリスティー式サスペンション」の名を後世まで残し、彼が直接開発に携わった戦車の中でもっとも完成度が高く、今なおエポックメイキングな存在として高く評価されているM1931(陸軍名:コンバーチブル中戦車T3)である。 この戦車がなければ旧ソ連のBTシリーズは存在することがなく(当然、『ガールズ&パンツァー』に登場するBT-42も)、旧ソ連に大祖国戦争の勝利をもたらしたT-34も誕生することはなかった。この戦車の誕生からの紆余曲折については、次回に改めて語ることにしよう。