『ガールズ&パンツァー』でも話題の「クリスティー式サスペンション」を発明した天才エンジニアが辿った苦難の道! 戦車開発がブレイクスルー
クリスティー初の戦車は最悪の乗り心地で陸軍に拒否される
第1次世界大戦の終結後、戦場で新兵器・戦車が大いに活躍したことに注目したクリスティーは、1919年に自身初の戦車となるM1919中戦車を試作している。 当時の戦車は機動性が低く、自走での長距離移動は信頼性の面で難があったことから、この戦車は車体の四隅にゴムタイヤを備えた大型の車輪を配置し(駆動輪は後輪となる)、行軍時は履帯を外した状態で走行して、戦場近くで再び履帯を履かせるという「コンバーチブルドライブ」(装輪装軌併用式)を採用していた。 武装はイギリス製のオードナンスQF 6ポンド砲を旋回砲塔に搭載し、砲塔の上には30口径機関銃を備えた旋回銃塔を備えた二段砲塔を採用。パワーユニットは120hpを発揮する自社製の6気筒水冷ガソリンエンジンが搭載されていた。 M1919はメリーランド州アバディーン性能試験場において、1921年2月から2ヶ月間に渡って、競合する兵器局が製作したA型中戦車とともにテストされた。 その革新性こそ評価されたものの、サスペンションが車体中央のボギーにしか採用されておらず、路外での乗り心地が耐えがたいほど酷く、エンジンのパワー不足に加え、信頼性も不安視された。 そのことを軍から指摘されるとクリスティーはM1919のボギーとサスペンションを改良し、二段砲塔を撤去して車体に武装を備えたM1921自走砲で再審査に臨んだが、信頼性を理由にこれもまた退けられた。 最終的に陸軍が選んだのはA型中戦車で、改良が施されたあと1928年にM1中戦車として制式化されている(量産化はされなかったが)。
経営危機の会社を救った水陸両用車がアメリカ海兵隊装甲車両の原点に
クリスティーの自信作であったM1919が退けられたことにより、CDAMCは経営危機に陥ってしまう。だが、タイミング良く資金難に喘ぐ彼のもとに兵器局から「以前に受領した試作兵器の代金」の名目で10万ドルの小切手が送られてきたのだ。これで破産の危機を免れたクリスティーは、イギリス軍のガリポリ上陸作戦失敗の戦訓から上陸作戦に使用する専用の装甲車両を求めていた米海兵隊に対して、彼は前例のない水陸両用戦車の開発を請け負ったのだ。彼は兵器局から受け取った資金を元手にして4ヶ月という短期間で試作車・M1921水陸両用車を完成させる。 米海兵隊に提出された水陸両用車は、さっそく1921年6月に米軍関係者が見守る中、ニューヨーク州とニュージャージー州の州境を流れるハドソン川で渡河試験が行われ、途中で水没することなく無事に川を渡り切ることに成功した。 ただし、この車両には武装・装甲ともに施されていなかった上に、車体にはバルサ材でできた不格好な着脱式フロートが取り付けられており、その完成度はお世辞にも高いものとは言えなかった。 だが、このトライアルで成功の糸口を掴んだクリスティーは、それから振り出しに戻ってゼロから設計をやり直し、寝食を忘れて水陸両用車の開発に打ち込んだ。その結果、4回目の試作車両でようやく性能的に満足できる車両が完成した。 M1924と名付けられた試作車両はさっそく1924年にプエルトリコのクエブラ島で行われた米海軍・海兵隊の合同演習で実地テストが行われることとなった。しかし、試験日はあいにく海は荒れていた。戦艦ワイオミングから進発した試作車は途中で操縦困難になり、目的地である島に上陸することなく母艦へと引き返している。その翌日、再試験が行われた際には、昨日とは打って変わって波は穏やかになり、今度は無事に島へ上陸することができた。 2日間に渡るテストを監督していたホランド・スミス海兵隊大将は「クリスティーの試作車は対航性に難があれど、水陸両用車の将来性は有望である」との結論を導き出した。この結果を受けて、クリスティーの水陸両用車は大量採用こそ逃したものの、少数が海兵隊戦車・GC-2として導入されることが決定した。 GC-2はのちに米海兵隊が装備するすべての水陸両用車シリーズの原点となった車両である。実戦に耐え得る水陸両用車の登場は、1935年にドナルド・ローブリングが開発するLVT-1を待たなければならなかったが、同車の誕生により水陸両用車を用いた水陸両用作戦の研究は進み、関連技術の開発にも予算がつくようになった。その成果は太平洋戦争によって花開き、島嶼を巡る日本軍との戦いで米国は作戦を有利に進めることができたであった。 ドナルド・ローブリング(1908年11月15日生~1959年8月29日没) アメリカの建築家にして発明家でもある。祖父は1883年にニューヨーク市内を流れるイースト川最初の固定橋であり、建造当時は世界最長の橋となったブルックリン大橋を設計したジョン・A・ローブリングの曾孫である。アメリカ国家歴史登録財であるローブリング・エステート(スポテッドハウス)を設計するなど建築家として活躍したほか、科学や機械工学にも知見があったことから1937年に水陸両用車を設計した。 GC-2の誕生がなければ、第二次世界大戦から朝鮮戦争にかけて活躍したLVT-1/2/3はもちろんのこと、ベトナム戦争に投入されたLVTP-5、そして冷戦後期から現在でも運用が続けられているLVTP-7(現・AAV-7)の存在はなかったか、誕生しても登場時期はずっと後にずれ込んでいたことだろう。