日銀会合とFOMC後の会見でわかる「社会の違い」――なぜ日本はアメリカとこんなにも違うのだろうか
日本では、社会も言論界も、「99%」に支配されているのだ。それはそれでいいことであるが、1%の議論と専門家の知恵を99%が利用する社会のほうが、結局は効率的かつ合理的であり、そして本来は望ましい社会ではないだろうか。 しかし、日本は永遠にそうならない。そして、それが非効率であっても、もちろん構わない、という社会の意見なのだ。そして、エリートは抹殺され、今後も存在させられないように絶滅危惧種化、いやすでに絶滅して専門家軽視の社会が出来上がってしまっているのだ。
金融政策の領域以外でもあらゆるところで、この現象がみられる。例えば、原子力発電の議論をタブー視、封印したのが一例だ。その結果、円安、資源高で日本は貧しくなったのだ。いまさら思い知っても遅いのだが、いまでも、この議論をすると炎上するだろう。原発再稼働よりも貧しいほうがいいとみなされているのであり、その比較をすること自体が禁じられているのである。 金融政策の領域では、リフレ、MMT(現代貨幣理論)、アベノミクス、この「日本金融政策史上の三大禍根」が、この構造から生まれたのだ。
似非(えせ)専門家が専門家のふりをして、そして、庶民と庶民の味方のふりをする必要のある政治家の気持ちをつかんだのだ。デフレがすべて悪い、インフレになればすべて解決する、という庶民にわかりやすいロジックを使うことで、庶民の味方であるかのようなふりをして、デフレ脱却という呪文を唱えて、社会を支配したのだ。 そして、財務省そしてついには日銀(そして日銀理論)をエリートの権化であるとして攻撃ターゲットとし、吊るし上げた。彼らのエリート主義が諸悪の根源であり、彼らと彼らの議論を葬り去ることがすべてを解決すると主張した。
それの理論的支柱であり、「実行する将軍」となったのが、エリート中のエリート、日本最後のインテリである財務省出身の黒田東彦日銀前総裁だったというのは、なんたる皮肉であったことか。私は、黒田氏のことを現在でも尊敬しているが、歴史の皮肉には、ため息をつかざるをえない。 そして、この庶民の代弁者として偉そうに振る舞う似非知識人、エリートでも知識人でもなく、かつ庶民でもない、エリート攻撃をして飯を食っている(大抵は裕福に)人々を、「たかがネット論壇にすぎない」とかなんとか言って、かかわらず放置してきたエリート達が、日本の論壇を堕落いや消滅させた、最大の有罪者である。