「幕末の日本」に来たイギリス外交官が絶句…「外国人惨殺事件」の”恐るべき実態”
最も野蛮な殺人行為
日本はいったい、世界のなかでどのような立ち位置を占めているのか。 世界情勢が混乱するなか、こうした問題について考える機会が増えた人も多いかもしれません。 【写真】アーネスト・サトウは、こんな顔でした 日本が世界に占める位置を、歴史的な視点をもって考えるうえで非常に役に立つのが、『一外交官の見た明治維新』(講談社学術文庫)という本です。 著者は、イギリスの外交官であるアーネスト・メイスン・サトウ。1843年にイギリスに生まれたサトウは、1862年、幕末の日本を訪れ、在日イギリス公使館の通訳官や、駐日公使を務めました。 本書は、サトウが日本に滞在した期間に見聞きしたことをまとめたもの。そこからは、当時の日本が世界のなかでどのような立ち位置にあったのか、イギリスという「文明国」から日本がどう見えていたのか、そのころの国際情勢、そして、当時の日本社会のあり方がよく伝わってきます。 たとえば、1862年9月、リチャードソンという商人が日本人の武士に殺害される事件が起きます(生麦事件)。その経緯、そして、それを受けての外国人コミュニティの反応は興味深いものがあります。同書より引用します(読みやすさのため、改行などを一部編集しています)。 *** 九月十四日に、上海の商人であるリチャードソンという人物が、この世で考えられるかぎり最も野蛮な殺人行為の犠牲となった。 彼は、香港のボラデイル夫人と、ウッドソープ・C・クラークとウィリアム・マーシャルという横浜の住人二人とともに神奈川と川崎をつなぐ街道を乗馬していたとき、大名の家臣の行列と遭遇し、彼らはリチャードソンの一行に対して道を開けるように指示した。 そのためリチャードソン一行は道端を進み、そのうちに薩摩の領主の父である島津三郎の乗り物が視界に入ってきた。するとリチャードソン一行は、今度は引き返すように命じられ、そのため馬を旋回させようと試みたのだが、その最中に行列の武装した男たちに襲撃され、鋭利で重い剣で叩かれた。 リチャードソンは瀕死の状態で落馬し、他の二人も重傷を負いながら、夫人に「逃げよ、我々はあなたを守ることはできない」と叫んだ。彼女は無事に横浜に戻り、起こったことを伝えたので、居留地に緊張が走った。馬と拳銃を所有していた者はみな、武装して騎乗し殺人現場へと向かった。 イギリス領事のヴァイス中佐は、公使館護衛兵の司令官が指示を出すまで決して動いてはならないというニール大佐の命令があったにもかかわらず、公使館の騎兵を引き連れて先導した。フランス公使のド・ベルクール氏も、六人のフランス人兵士によって構成された公使館の護衛兵を差し向けた。第六十七連隊のプライス中尉も、公使館護衛の歩兵の一部とともに出発し、フランス人歩兵数名もこの部隊に合流した。 だが、最初に出発したのは、彼の職務を全うせんという強い使命感ゆえに恐怖という感情をまったく抱いていなかった、ウィリス医師であった。彼は、イングランド人の血の匂いが漂う剣を携えた男たちの行列を横目に、一マイルほど神奈川の街道沿いに馬を進めると、そこで三、四人の他のイングランド人が追いついてきた。 そこからさらに生麦まで進むと、街道沿いの木陰に哀れなリチャードソンの遺体を発見したのである。力なく横たわる遺体の首には傷跡が残されていて、体は刀傷だらけで、そのうちどれが致命傷であっても不思議ではなかった。 遺体は神奈川のアメリカ領事館に運ばれた。一命をとりとめたクラークとマーシャルもそこに逃げ込んでヘボン医師の手術を受け、後にはもう一人の医師であるジェンキンス氏も手術に加わった。 港にイギリス軍艦は一隻しか碇泊していなかったが、その日の夜に旗艦ユーライアラス号に乗ったキューパー提督が軍艦リングダヴ号とともに到着した。 外国人の商人が手にかけられたのはこれがはじめてだったため、居留地の商人社会はかなり興奮していた。日本の剣はカミソリのように鋭利で、恐ろしい創傷を与える。日本人たちは、相手が万に一つも生き永らえぬよう、人を細切りにする術を知っていた。 そのことはすべてのヨーロッパ人に多大な影響を及ぼし、二本差しの者は誰もが暗殺者かもしれないと思うようになり、往来で彼らの横を無事に通り過ぎることができたときには生きていられたことを神に感謝するようになったのである。 *** これだけの事件が起きながら、日本と諸外国は全面的な戦争を経験することはなかった……いかに当時の日本が綱渡りのようなギリギリの環境を歩んでいたかが伝わってきます。 さらに【つづき】「19世紀のイギリス外交官は、なぜ「日本という極東の国」に魅入られたのか? その意外な理由」では、サトウが日本に惹かれたきっかけについてくわしく紹介しています。
学術文庫&選書メチエ編集部