『光る君へ』で藤原為時が赴任<歴史・地理的な要所>北陸地方。その能登へ源平合戦後に流され「日本史に大転換をもたらした」平家の子孫とは?
◆「航海事業家」時国家 また、石川県(能登国)では能登半島の付け根にある気多大社が、福井県(越前国)の気比神宮と並んで、遅くとも八世紀には対外交通の要所を押さえる神社として朝廷からも尊崇を受けていました。 気多大社には隣接して、奈良時代から平安時代にかけて、砂堆の上に営まれた寺家遺跡という大規模な祭祀遺跡が確認されているのですが、そこでは大型焼土遺構と呼ばれる大規模な焚き火の跡が見つかっています。 これは、闇夜や悪天候の時に篝火を焚いて、航行する船の目印になった、一種の灯台のような役割を果たしたものではないかと考えます。そんな遺跡があるのも能登半島ならではなのです。 そして能登半島の先端、輪島市には、江戸時代の豪農であり、北前船を持つ「航海事業家」だった時国家の邸宅があります。 この時国家は、桓武平氏から「平家」を構成した一族で、公家平氏の平時忠(平清盛の妻・時子の兄弟)の子孫だと伝えられています。 「平家にあらずんば人にあらず」と言ったと『平家物語』では伝えられる時忠は、源平合戦の後、能登国に流されたのですが、その地で子孫たちが繁栄したというのです。
◆<日本史の常識>に大転換を迫った時国家の文書群 その真偽はともかく、中世以来時国家が有力な在地勢力だったことは疑いなく、その繁栄の基盤には、海(海運業)と山(林業)と土地(農業)に恵まれ、海に開いた能登という土地があったということができます。 時国家は現在、時国家(下時国家)と上時国家に分かれており、それぞれが文化財指定を受けている江戸時代の貴重な邸宅をはじめ、数多い文化財をお持ちです。特に戦災に遭うこともなく、何百年も伝えられてきた文書群は、日本史の常識に大転換を迫るものでした。 日本中世史に新しい視点を盛り込み、大きな足跡を残し、スタジオジブリの『もののけ姫』にも影響を与えた網野善彦(1928-2004)という歴史家がいます。 網野は一時期、勤めていた神奈川大学に、戦後に国の事業として集められながら資料館ができず、残されたままの漁業関係文書が大量にあることを残念に思い、それをもとの持ち主に返却する旅を行なっていました。 その過程で時国家を知り、文書を返却するために滞在して、歴史観が変わるほどのショックを受けました。 それは、それまで単に<農民>とされていた人々の海・山・土地に広がる多様性に気づいた、ということで、この事実は、いろいろな文書とそれを守ってきた地域文化を一体に理解して、初めて理解できることだったのです。 網野と時国家の関係は、網野善彦『古文書返却の旅―戦後史学史の一齣』(中公新書 1999年)にも印象的に記されています。 そして能登の時国家の周りには、まだまだ未知の資料、そして文化が眠っていると思われます。
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