“アンチ・フェラーリ”で誕生したブランドは、ランボルギーニだけにあらず──「セレニッシマ・アジェーナ」って何だ?
ランボルギーニだけにあらず。もう1台の「アンチ・フェラーリ」
入選はしなかったものの、筆者が最も興味深い歴史をもった1台を「タイムカプセル」の中から選ばせてもらえるなら、間違いなく「セレニッシマ・アジェーナ」だ。 主人公はイタリア・ヴェネツィアのジョヴァンニ・ヴォルピ・ディ・ミスラータ伯爵(以下ヴォルピ伯爵)である。ちなみにイタリアでは今日でも、伯爵、侯爵といった称号で呼ばれる人たちが各地に存在する。公務員の役職に使用を禁止する法律こそあるが、第二次世界大戦後に制定された共和国憲法に、それを否定する文言がないことが背景にある。 ヴォルピ伯爵は9歳のとき、ヴェネツィア映画祭の創設者でもあった父親ジュゼッペ・ヴォルピ伯爵(1877-1947)を失った。その莫大な遺産をもとに1958年、20歳の年にプライベートのレーシングチーム「スクデリア・セレニッシマ」を結成。当初はアバルト、フェラーリ、マセラティ、そしてポルシェの車両を使用した。やがて1960年には「マセラティ・バードケージ」の開発に資金提供を決め、「フェラーリ250GTO」計画にも同様に資金面で参画した。 しかし、フェラーリとの関係は破綻する。その創立者エンツォ・フェラーリに反旗を翻したエンジニアたちによって1962年に興された新ブランド「ATS(アウトモービリ・トゥリズモ・エ・スポルト」社にヴォルピ伯爵が資本参加したのがきっかけだった。“アンチ・フェラーリ”で誕生したブランドといえば、ランボルギーニがあまりにも有名だが、実はヴォルピ伯爵のクルマづくりもフェラーリとの事件がきっかけのひとつだったのである。ちなみに伯爵は当時24歳。対してエンツォ・フェラーリは1898年生まれだから、64歳だったことになる。 伯爵の計画は続いた。翌1963年、自身のスポーツカーを生産する目的でボローニャに新たなブランド「アウトモービリ・セレニッシマ」を立ち上げる。当初の工場は地元ロールス・ロイス輸入業者の敷地内だったが、1966年にはモデナ近郊の専用工房に移転。ただし商業的成功は得られず、1970年までに4モデルを開発・生産したあとシャッターを閉じた。 今回ヴィラ・デステに参加したセレニッシマ「アジェーナ」は1967年に開発されたプロトタイプである。ただしミドシップされたV8エンジンは米国製のOEMなどではなく、オリジナルだった。正式に登録されたことは一度もなく、公道走行時は常にProva、すなわち仮ナンバーだったという。2020年、ヴォルピ伯爵がアジェーナを現在の所有者に売却するまで、このクルマは外の世界からほとんど忘れられていたのである。 もちろん、この物語には伯爵個人の資金力があったことは紛れもない事実だ。しかし、理想のクルマを造りたい思いがあれば、大企業でなくても実現できた時代が僅か半世紀前まであったことを、この白いGTは静かに物語っている。これからも同様に、タイムカプセルから出てきたようなクルマたちが、私たちの知的好奇心をくすぐってほしいものだ。 在イタリア ジャーナリスト/コラムニスト/自動車史家 大矢アキオ ロレンツォ/Akio Lorenzo OYA 音大でヴァイオリンを専攻、日本の大学院で比較芸術学、イタリアの大学院で文化史を修める。『シトロエン2CV、DSを手掛けた自動車デザイナー ベルトーニのデザイン活動の軌跡』(三樹書房)、『ザ・スピリット・オブ・ランボルギーニ』(光人社)など著書・訳書多数。シエナ在住。NHKラジオ深夜便ではリポーターとしても活躍中。イタリア自動車歴史協会会員。
文と写真= 大矢アキオ ロレンツォ(Akio Lorenzo OYA) 写真= 大矢麻里(Mari OYA)