「新歓で受けた悪質なドッキリ」にげんなり…国立大を1年で休学した男子学生が、東京藝大に通うまで
休学して東京の美大予備校に通うことを決意
大学入学以降、焦燥感だけが募る日々が続いた。しかし、その時間は無駄にはならなかった。興味関心を見つめ直し、自分自身の人生に深く向き合うトリガーを引く出来事になったのだ。 当時、流太さんは、NHKが主催する『18祭』という、18歳世代の様々な想いを聞いて大物アーティストが新曲を作るイベントに向けて、2×5mの大きな絵を描くパフォーマンス動画の撮影に取り組んでいた。大変だったが楽しい――そんなポジティブな感情が、流太さんの「絵を描きたい」という気持ちに火をつける。おのずと封印していた東京藝大への思いもぶり返し、家族を説得した末に、大学を休学して東京の美大予備校に通うことを決意。 「浪人して最初の時期に一番辛かったのは、周りとの実力差。一般的な大学受験で喩えるなら、偏差値50くらいなのに東大コースの授業を受けちゃった感じです。今まで周りから『絵が上手い』としか言われてこなかったわけですけど、予備校内では圧倒的に最下位という実力からのスタートで」 無理もない。流太さんは美大予備校に行くまで、美術部に所属したこともなければ、誰かに絵を教えてもらったことすらない状態。 とはいっても逆境から始まった浪人生活の苦みも、いま振り返ると心地よさが残っているという。 「上手く描けなくて精神的に辛くなることや休みたい日はありました。けれども、モチベーションが下がったり、放り出したくなるようなことはありませんでした。逃げ場はないし、描くしかない。制作し続けられる環境が幸せだと思って」
東京出身者に対するコンプレックスが徐々に…
浪人期間は、流太さんにとって「生まれ直した」とさえ思うくらい、自身の内面の変化が著しかったのだという。 「予備校時代、東京出身の人に対する格差のコンプレックスが苦悩の中心でした。美大に通うための予備校は東京に偏り、地元では選択肢が限られていましたから。しかし、自分が羨望している東京出身者であっても、予備校の前後でバイトして通っていたり、そもそも1年間通い続けるお金もないから、前期の間にお金を貯めて後期からようやく来れたという人もいました。『20代半ばにさしかかり、今年がラストチャンス』と、後がない人もいれば、持病があって予備校に通えなくなった人も。ずっと自分のことでいっぱいいっぱいでしたが、みな切実な思いと事情を抱えてここに立っているのだと知りました。 予備校で過ごしてると、“予備校にいる人”のことしか見えてきません。ただ、色んな理由で“ここにいたくてもいられなかった人”は、出身がどこだろうとたくさんいるんですよね。そう考えると、僕は少なくとも自分がここにいられることに感謝するべきですし、一緒に戦える彼らに対しても感謝し、リスペクトするようになりました。彼らの作品を毎日見て、勝ったり負けたり、喜んだり悔しがったりの繰り返しの中で、お互い上手くなっていくのです。そうしてだんだんと、『全員蹴落としてやる』という思いが薄れ、『みんなで一緒に受かれたらいいよね』といった境地に達していきました」