平安時代はかなり温暖だった?女性が参詣する時に覆い隠さねばならなかった部分とは?今に残る絵巻や写経から<平安時代のファッション>を読み解く
◆絵巻物が伝える庶民ファッション 貴族ファッションを中心に取り上げてきたが、人口の大多数を占める庶民がどのようなファッションをしていたのか気になるところである。 男性の多くは、頭に萎烏帽子(なええぼし)を被り、膝下で縛る短い丈の小袴に盤領の水干形式の上着を着て袴の中に入れた姿が『伴大納言絵詞(ばんだいなごんえことば)』に描かれている。 『春日権現験記絵』には工事現場のような場所で労働に勤しむ男性たちの絵が描かれているが、彼らは筒袖(小袖)に膝下で縛る短い丈の小袴姿である。ほとんどが無地だが、ボーダー柄の男性も描かれているのが驚きである。 女性の髪の長さはまちまちで、肩あたりで切り揃えた者・長めの髪を首あたりで縛っている者など、髪型に大きな決まりはなかったと推測される。 衣服は基本的には筒袖(小袖)か少し広めの袖口の筒袖の着流しに腰布を巻いた姿、また「手無し」といわれる袖無しの着流し姿も『扇面古写経』に散見される。
◆平安時代は温暖であったと推測される… 中でも栗拾いをしているシーンで手無しの着流し姿の女性達が描かれており、平安時代がかなり温暖であったことも推測される。 庶民の子供は、裸のままで母親と思われる女性に手を引かれる幼児の姿が『扇面古写経』に描かれており、ある程度の年齢までは服を着せていなかったのではないかと推測する。 現在の小学生くらいの年齢の子供は、裸足で筒袖の紐つき衣の着流し姿で『年中行事絵巻』に多く描かれている。乳児の場合は、貴族であっても裸でいたようで、その姿も『扇面古写経』に描かれている。 院政時代の文化の特徴は浄土思想の広まり、今様(いまよう)・田楽・のちに狂言に発展する猿楽の流行などがあり、絵巻などにも舞楽の様子が描かれているものが少なくない。 また、武士が表舞台に登場したことで歴史・軍記物語、何度も取り上げた『扇面古写経』『年中行事絵巻』『伴大納言絵巻』や『源氏物語絵巻』『鳥獣戯画』など、絵巻物などが多く作られているのもこれまでと違う平安後期の特徴だろう。 文化の担い手も上皇・貴族中心から武士・庶民に広がり、京都だけでなく地方へ普及し、奥州を平定した藤原氏による世界文化遺産に指定された中尊寺金色堂や大分県には富貴寺大堂(ふきじおおどう)が建立されている。 栄華を極めた平家だったが、やがて源氏の挙兵により源平合戦となり、文治元(1185)年に壇ノ浦で当時8歳の安徳天皇と祖母・二位の尼(にいのあま)(平時子)が入水(じゅすい)し、滅亡する。 この時、三種の神器も海に沈み、八咫鏡(やたかのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は後に見つかっているが、草薙剣(くさなぎのつるぎ)は海に沈んだままとされる。 そして、源頼朝が鎌倉幕府を開き、約400年間続いた平安時代は終わりを告げたのである。 ※本稿は『イラストでみる 平安ファッションの世界』(有隣堂)の一部を再編集したものです。
高島克子
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