平安時代はかなり温暖だった?女性が参詣する時に覆い隠さねばならなかった部分とは?今に残る絵巻や写経から<平安時代のファッション>を読み解く
大河ドラマ『光る君へ』で注目が集まる平安時代。ファッションデザイナーで服飾文化に詳しい高島克子さん(高は”はしごだか”)は「平安時代こそ、日本史上もっとも華麗なファッション文化が花開いた時期」だと指摘します。十二単(じゅうにひとえ) になった理由とは?なぜ床に引きずるほど長い袴を履いた?今回、平安時代の装いとその魅力を多角的に解説したその著書『イラストでみる 平安ファッションの世界』より紹介します。 【書影】〈光る君へ〉で注目の平安時代。ファッションや男性のメイクなど、現代に通じるに流行があった!ファッションデザイナーが読み解く『イラストで見る 平安ファッションの世界』 * * * * * * * ◆常識が大きく変わる女性ファッション 11世紀末から12世紀末になると、女房装束の唐衣に花結びなどをした紐をつけるようになる。構成自体はこれまでのものと変わりはないが、重ねる袿の枚数は増えているようである。 冬場は寒さ対策もあったであろうが、やはり他より綺麗に見せたいという女心か、見栄の張り合いだったのだろうか。 その後、女性の重袿の枚数は5枚と制限されていく。童女の正装としての汗衫(かざみ)(汗のつく内衣[肌着]であって、単(ひとえ)のものとされる)は、前時代から登場していたが、やがて下級者の表衣(うわぎ)となり、さらに長大化して公家の童女の正装に用いられたようだ。 本来の汗衫とは形も異なるが、単である点は共通している。構成は、衽(おくみ)つき・闕腋(けってき)・盤領(あげくび)を垂領にした汗衫、衵(あこめ)、五つ衣、打衣、単、白の表袴、濃き長い張袴となる。 また院政時代に入る少し前から、男女ともに装束の一番下に小袖を着用し始めていたのだが、院政時代も終盤あたりには、公家女子のファッションで小袖重ねの細長姿が登場している。 一番下に着るものから、小袖が装束の一つのアイテムとなったのである。時代は延暦13(794)年、現在の京都(山城国やましろのくに)に遷都(せんと)としたことにより始まる。
◆顔や身体を覆い隠す、女性の参拝スタイル 院政時代では、貴族女性も時には外出や旅に出ることもあったようだ。行幸や主人の宿下がりのお供や自分自身の宿下がり、賀茂祭等の祭り見物、夫の任地への同行など様々な状況があったと考えられる。 上級女房クラス(例:清少納言や紫式部クラス)以上は牛車(ぎっしゃ)で移動していたが、中級女房達は徒歩で供をしていた。 その際のファッションが、袿姿の裾を歩きやすいように引き上げて腰を紐で結び、頭に市女笠(いちめがさ)を被る壺装束か、衣を一枚頭から被る被衣(かずき)スタイルだった。 ただし、神社仏閣に参詣する時は徒歩で参拝しなければご利益(りやく)がないとされ、上流階級の女性も顔や身体を覆い隠すスタイルで出掛けた。 この壺装束や被衣スタイルは、『扇面古写経』や『年中行事絵巻』の中に多数登場している。 その他にこの平安時代末期の院政時代に始まった男装の舞妓(まいこ)、白拍子(しらびょうし) のファッションも注目すべきだろう。 妓王(ぎおう)、妓女(ぎじょ)、仏御前(ほとけごぜん)、また鎌倉時代へと導いた武者の一人、源義経との悲恋で有名な静御前等が知られる。 スタイルの構成は、立烏帽子(たてえぼし)、水干(すいかん)、単、紅長袴に太刀佩(お)び、手に蝙蝠扇(かわほりおうぎ)。やがて太刀と烏帽子を外すスタイルへと変化し、静御前が髪を結い上げて、白袴を着けて舞ったとされる。
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