裁判官時代の立場はまるで「共産主義下の知識人」…都合の悪い人間を排除する組織の「闇」に耐えかねて裁判官を辞めるまで
「裁判官」という言葉からどんなイメージを思い浮かべるだろうか? ごく普通の市民であれば、少し冷たいけれども公正、中立、誠実で、優秀な人々を想起し、またそのような裁判官によって行われる裁判についても、信頼できると考えているのではないだろうか。 【漫画】刑務官が明かす…死刑囚が執行時に「アイマスク」を着用する衝撃の理由 残念ながら、日本の裁判官、少なくともその多数派はそのような人々ではない。彼らの関心は、端的にいえば「事件処理」に尽きている。とにかく、早く、そつなく、事件を「処理」しさえすればそれでよい。庶民のどうでもいいような紛争などは淡々と処理するに越したことはなく、多少の冤罪事件など特に気にしない。それよりも権力や政治家、大企業等の意向に沿った秩序維持、社会防衛のほうが大切なのだ。 裁判官を33年間務め、多数の著書をもつ大学教授として法学の権威でもある瀬木氏が初めて社会に衝撃を与えた名著『絶望の裁判所』 (講談社現代新書)から、「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」ことに固執する日本の裁判所の恐ろしい実態をお届けしていこう。 『絶望の裁判所』 連載第14回 『裁判官の「タブー」に踏み込んだ書物を批判する“飼い慣らされた”裁判官たち…裁判所上層部の「腐敗」の実態に迫る』より続く
学術界から認められる筆者の論文
現在の裁判所の状況は、いわば、官僚、役人タイプが、かつての多数派であった職人タイプを圧倒し、駆逐した状況にあるといってよい。言葉を換えれば、多数派、中間層の官僚化・役人化傾向が著しい。元々ごくわずかではあったがそれでも常に一定数存在していた学者タイプもほぼ跡を絶ち、少なくとも、私より後の世代では、学界にまで広く認められているような人はほとんどいない。 そうした中、2000年代の後半に執筆した『民事訴訟の本質と諸相──市民のための裁判をめざして』(日本評論社、2013年)の原稿は、到底裁判官を続けながら発表できるものではなく、初稿完成後も、制度論、制度批判の部分を中心に記述を補い推敲を重ねながら学者転身の日を待つことになった。その内容は私の研究の総論であり、その形式は、この書物同様、研究と筆名の執筆という2つの流れが融合した位置にある。内容はもちろん、そのような斬新なスタイルそのものが、現在の裁判所においてタブーとされるものであることは火を見るよりも明らかであった。 私は、裁判官のままでも出版が可能なケースブック(実際の判決を用いた学習教育書のこと。このケースブックは、私自身の判決にみずから解説を施したものである)、論文集、これまでの書物に基づく3冊の入門書を出しながら、前記の原稿をじっと抱えて、それが発表できる日を待っていた。 私の研究は、裁判官や弁護士にとどまらず、書物、論文や2回の学会報告等を通じ、民事訴訟法を始めとする民事法領域の学者にもかなり広く知られていき、その結果、大学の勧誘をいくつか受けることになった。 裁判官時代に大学からいただいたお話は3つ、最初のものが2002年ころ、2つ目が2005年ころ、最後が2011年、順に、公立、国立、私立で、最後が明治大学であるが、公立、国立も評価の高い有力大学であり、いずれも法科大学院ないし法学部における民事訴訟法の専任教授のお話であった。 日本を震撼させた衝撃の名著『絶望の裁判所』から10年。元エリート判事にして法学の権威として知られる瀬木比呂志氏の新作、『現代日本人の法意識』が刊行されます。 「同性婚は認められるべきか?」「共同親権は適切か?」「冤罪を生み続ける『人質司法』はこのままでよいのか?」「死刑制度は許されるのか?」 これら難問を解き明かす共通の「鍵」は、日本人が意識していない自らの「法意識」にあります。法と社会、理論と実務を知り尽くした瀬木氏が日本人の深層心理に迫ります。