魔界・京都「我、日本国の大魔縁となり」最も恐れられていた怨霊伝説とは?
我が国の歴史の中で怨霊と言われる存在は多数あります。関東の人であれば平将門がすぐに思い浮かぶでしょう。私はかつて東京の大手町で仕事をしていたことがありますが、その大手町にある大手商社の傍に将門公の首塚があります。この首塚には今までに様々な恐ろしい伝承が伝わっているのはよく知られています。 もちろん歴史の古い都である京都にも怨霊伝説はたくさんあります。そもそも平安京自体が早良(さわら)親王の祟りを恐れた桓武(かんむ)天皇によって長岡京から遷都されて生まれた都です。そして、その怨霊を鎮めるために京の街のいたる所に様々な除霊装置が施されていると言います。いわば京都はそうした怨霊スポット、冥界スポットだらけと言ってもいいでしょう。
日本史上最強の怨霊とは?
そんな都に伝わる怨霊伝説の中で日本史上最強の怨霊と言われるのは一体誰でしょう。それはおそらく「崇徳(すとく)院(崇徳上皇)」が衆目の一致するところであろうと私は思います。崇徳院は諱(いみな)を顕仁親王と言い、鳥羽天皇の第一皇子として産まれました。ところが一説によれば母の待賢門院(藤原璋子)は鳥羽天皇の祖父である白河法皇の寵愛を受けており、顕仁親王は父、鳥羽天皇ではなく、白河法皇の子だったと言われています。 そんなことから彼は父である鳥羽天皇からは疎まれていました。在位中も上皇になって以降もあまり大きな権力を持つこともなく、不遇と言っても良い時を過ごしていたのですが、そんな彼の人生を大きく変えたのが平安時代末期、1156年の「保元(ほうげん)の乱」です。これは摂関家の内紛などの背景から後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれての争いとなったものでしたが、結果としては崇徳上皇方の敗北に終わり、彼は讃岐へ配流されることになります。天皇や上皇が配流されるのは何と400年ぶりだったのです。 讃岐に流された崇徳院は、経典を写本することに精を出し、保元の乱で亡くなった兵士たちの回向と自らの反省の意を込めて写本を京に送ったところ、後白河法皇から送り返されてきたのです。これに激しく怒った崇徳院は、自分の舌を噛み切り、送り返された写本に自らの血で、「我、日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と書き込みました。これはまさに皇室を呪詛(じゅそ)する言葉です。皇室の地位を貶め、民がそれにとって代わるというのは一種の革命思想とも言えます。実際、その後は源平の合戦を経て武家の政権である鎌倉幕府が誕生したわけですから、これはその通りになったといえないこともありません。 崇徳院はその後、爪や髪を伸ばし放題とし、まるで夜叉のような姿になり、讃岐の地にてその一生を終えました。2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」で俳優の井浦新氏が鬼気迫る崇徳院を演じていたことは記憶に新しいところです。