魔界・京都「我、日本国の大魔縁となり」最も恐れられていた怨霊伝説とは?
穏やかな余生を過ごしていたという説も なぜ怨霊に転じてしまったのか
ところが、大宰府に流された菅原道真同様、崇徳院も讃岐の地において、生前は穏やかな余生を過ごしていたという説もあります。にもかかわらず怨霊として恐れられたのは、その後、後白河法皇に近しい人が相次いで亡くなったり、大火や鹿ケ谷の陰謀のような世情不安となる出来事が相次いだりしたためで、こうした不吉なことが続いた背景から怨霊伝説が生まれたものと考えられます。そしてこの伝説は後世まで語り継がれ、江戸後期に上田秋成が著した『雨月物語』の「白峯」の編にも怨霊となった崇徳院と対面する西行の姿が描かれています。 雨月物語に出てくる白峯というのは崇徳院が配流された讃岐の白峯山のことです。今でも香川県坂出市には崇徳天皇白峯陵があります。明治維新の折、明治天皇が自らの即位の礼にあたって、京都の今出川堀川の地にその名を冠した白峯神宮を創建しました。そして勅使を讃岐に遣わし、崇徳院の御霊をこの白峯神宮にお迎えしているのです。さらに昭和天皇は崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964)に、やはり香川県の崇徳天皇陵に勅使を遣わし、式年祭を執り行っています。歴代の皇室がいかに崇徳院の怨霊を恐れ、鎮魂のために意を尽くしてきたかということが感じられます。 ところで、白峯神宮が創建された場所は公家であった飛鳥井家の邸宅跡地です。飛鳥井家というのは蹴鞠(けまり)の師範の家柄です。したがって今でも白峯神宮には崇徳院の霊を祀るだけではなく、その境内の地主社には蹴鞠の守護神が祀られています。このことからここはサッカーの神様として多くの信仰を集めています。最近ではサッカーに限らず、広く球技やスポーツ全般の神様として信仰があり、Jリーグやバレーボールの日本代表チームなどから奉納されたボールが社殿前に置かれています。高校の修学旅行でもサッカー部の生徒などは多くが参拝しているようです。 そんな日本歴史上最強の怨霊が鎮座されているところと、元気な高校生たちの「サッカーが上達したい」という素朴な願いの場が同じところにあるという面白さ。これも京都ならではの奥行きの深さと言ってもいいのではないでしょうか。 (経済コラムニスト・大江英樹)