イエメン、「幸福のアラビア」いつの日か(4) ~「忘れられない戦争」~
年明け早々、米国がイラン革命防衛隊のソレイマニ司令官を殺害したことで、「第3次世界大戦」の勃発もささやかれるなど、中東情勢が緊迫の度合いを増しています。そして、このイランと関係が深いとされる「フーシ派」が首都を支配する国にイエメンがあります。国内を舞台に続く戦争によって、深刻な人道危機に見舞われているにもかかわらず、国際的なニュースになることも少ないことから「忘れられた戦争」と言われることもあるようです。 かねてよりイエメン難民の取材などを続けてきた写真家の森佑一さんは昨年8月、初めてイエメンを訪れ、同国内を旅しました。中東各地で起きている様々なことは、一見すると別々に起きているようにも見えますが、実は相互に関連しているケースは少なくありません。中東情勢の緊張感が高まる今、森さんに戦時下にあるイエメンで見聞きしたことをルポしてもらいます。
情勢悪化、断たれた北西部への道
イエメン入国から5日。 マアリブから南に300キロ行ったところでは、独立派と暫定政府軍との戦闘が依然として続いていた。 連日報道されるニュース番組をホテルの部屋にあるテレビで見ていた。速報を知らせる赤色のテロップがテレビ画面の一番下をひっきりなしに流れている。ムハンマドやドライバーはカートを噛みながらテロップを目で追い、情勢について話し込んでいる。 他の番組も確認するため、チャンネルを変える。 カタールの「アル・ジャジーラ」、サウジの「アル・アラビーヤ」など、あらゆる報道機関が現地の情勢について伝えている。どのチャンネルにしても報道されるのは戦争だ。独立派と暫定政府軍との大規模な戦闘に関するニュースやムハンマド達の話を通して、情勢が急激に悪化しているのが見て取れる。 「前線が北上して来てマアリブが戦場になる可能性もあるのではないか」。最悪のシナリオが頭をよぎった。変化する情勢を考慮し数日マアリブで待機して北西部行きのタイミングを計ることとなった。それにしても、北西部へ向かうのに一週間近くかかることになろうとは予想していなかった。 そしてイエメン入国から7日目の早朝5時、サナアへ向け出発した。 早朝に検問へ向かうというのにも安全管理上の工夫があった。 「早朝だと薄暗くて、検問で警備する軍人も眠気目だ。その方が車内をチェックされにくいし、しつこい取り調べも受けずに通過しやすい」。ムハンマドは言う。 前日ムハンマドから、マアリブの出口であり入口にあたる検問の通過が最も難しいと聞かされていた。フーシ派エリアを行き来する不審な人物がいないか暫定政府軍が常に目を光らせているからだ。それでも今までは欧米のジャーナリストやカメラマンですら、許可証を見せれば執拗な取り調べもなくすんなり通れたと言う。 突然ムハンマドの仕事仲間から連絡が入った。マアリブにある南部や北西部方面へ抜ける検問の多くが閉められ、通れる検問が一つしかないという情報だった。若干不安がよぎる。 まだ夜があけて間もなく、辺りは薄暗くてよく見えない。そんな時間にもかかわらず、道路沿いにホブズ(アラブのパン)やシャーイー(紅茶)を売る移動販売店のようなものがあり、そこで朝食をとることにした。 甘いシャーイーに焼きたてのホブズだけ。質素だが素朴でおいしい。周囲にも朝食をとるイエメン人達の姿があった。これから仕事に向かうのだろう。 その場を離れ、砂漠を突っ切る道を車で20分ほど走っただろうか。いよいよマアリブの出口にあたる検問に差し掛かった。まだ夜が明けきっておらずあたりは薄暗い。検問の前に2、3人の軍人が立ち、行き交う車やバスを止めて身元確認をしている。こちらから出て行く車、あちらからやって来る車をチェックするレーンに分かれている。 早朝というだけあって、行き交う車もまばらで検問の前に列ができるほどではない。前方のバスが通過した後、すぐ自分たちの番になった。北西部へ抜けるための最後にして最重要な検問であるだけに不安と緊張で体が強張った。 ひとまず、私はムハンマドのアドバイス通り寝たふりをした。ムハンマドが軍人に許可証を見せながら話をしているのが薄眼を開けて確認できる。「頼む。通過させてくれ!」。心の中で祈った。しかしムハンマドと軍人とのやりとりはなかなか終わらない。ムハンマドの語気が次第に強まっていくのが聞こえ、さらなる不安をかきたてた。 そしてドライバーが車を検問を抜けた先の路肩にとめた。ムハンマドがやや緊張した面持ちで私に車で待てと言い残し、一人検問の外れへ向かった。これまですんなり通過して来た検問とは、明らかに様子が違った。 10分ほど経っただろうか。車で待機しているとムハンマドが、私にも来るように、と呼びに来た。その時点で私が不審に思われているのは明らかだった。呼ばれた先へ一歩一歩進む。私の周りの空気が進むたびに重苦しくなるように感じた。しかし、ここは冷静に対処しなければならない場面だ。心を決める。 呼ばれた先には、細身の体に深緑の迷彩服を来て頭にシャール(伝統的な布)を巻いた出で立ちの軍人が地べたに座っていた。おそらく検問の現場責任者だろう。傍にはカラシニコフを置き、スマホで誰かとやりとりをしている。その目は夜勤明けのためか、あるいはカートの噛みすぎのためか、赤く充血している。目を見開いてピリピリと神経質になっている様子がこちらに伝わってくる。 早速尋問が始まった。なぜこんなところに日本人がいるのか。イエメンで何をしているのか。何をしに北西部にいくのか。その質問にムハンマドが改めて説明する。そして私も事前に準備し練習しておいた言葉を言う。しかし、こう言う時に限って呂律がうまく回らない。 私はマレーシア人観光客ではなく、日本から来た古美術商のバイヤーで、希少な古美術品がサナアの旧市街にあるということを知り、はるばるイエメンまで実物を見に来たという設定になっていた。何か宝石を身につけていたわけでもなく、外見に古美術商の要素はなかったが、事前にインターネットから拾ってきた古美術品の写真を忍ばせ、もし聞かれた時に信ぴょう性を持たせられるように準備はしていた。 しかし、写真を見せても、軍人の深い疑いの眼差しや神経質な雰囲気が一向に和らぐ気配はない。再三、ムハンマドが暫定政府、フーシ派、独立派からの許可証を見せながら、相手の気を逆立てないように気を使いつつ、強く主張しているのだが、にっちもさっちもいかない。取りつく島もない、というのはまさにこのことだ。 軍人の「少しでも怪しい者の通過は一切認めない」という確固たる意思というか、負っている責務による重圧をひしひしと感じた。一ミリの隙もないような警戒心。独立派との戦闘に伴って、マアリブ一帯のセキュリティレベルが急激に上がっていることが容易に見て取れる。 彼が頭を縦にふる可能性はないと悟った。私には、引き返すほか残された選択肢は存在しなかった。 紛争地で不測の事態が起きるのは当然のことだ。しかし、まさか、目的の北西部を目の前にして取材を断念することになるとは思ってもみなかった。 現地取材に向けてこれまでやってきたことが脳裏に浮かんだ。日本での生活費と取材費の捻出のために働いたこと、イエメンについて文献をあさったこと、知人のツテを辿ってコーディネーターのムハンマドに出会ったこと――。取材計画を一から立てて、イエメンの地を踏んだ時には、2017年10月にヨルダンで始めたイエメン難民取材から一年半以上経っていた。 これまで苦労はなんだったのか。北西部の戦争被害の実態を取材して世間に発表することもできず、協力してくれた人たちに報いることもできない。今回の取材で蓄えはほぼ尽きた。当分次の取材には出られない。全てが水の泡になった。そう思うと、全身の力が抜けていった。