過酷な現場で働く支援者たちを支えるしくみづくりを 津久井やまゆり園事件を取材したジャーナリストの提言
植松は、事件の5カ月前の2月中旬、衆院議長公邸に手紙を持参し、受け取りを拒む公邸職員に土下座までして強引に手渡している。手紙は「私は障害者総勢470名を抹殺することができます」と始まり、職員の少ない夜勤の時間帯に行うこと、速やかに作戦を実行したら自首すること、逮捕・監禁されたあとは無罪となって自由な人生を送りたい、新しい名前と5億円を与えてほしいと訴えたのち、「ご決断頂ければ、いつでも作戦を実行致します」と書かれていた。 ──佐藤さんは著書の中で、戦場における兵士との比較で植松の心理を考察していますね。 「人は、簡単には人を殺せないようにできていると思うんですよ。例えば、戦場に向かう兵士がなぜ人を撃てるようになるかというと、人間的な共感性の部分を訓練によってぶち壊していくからですよね。だからこそ、日常に帰ると社会不適応を起こし、PTSDを発症して苦しむ。しかし植松からは、『加害者であることによって生じるPTSD』を感じません」 「ふつうは『命の重さ』とことさら言わなくても、育っていくなかで人との関わりがしっかりとできてくれば、おのずと身についてくるものだと思うんですよ。植松は、そこのところがどういうわけか、育ちきれていないように見えます。この事件の根底にある問いは、『なぜ彼はこれほどまでに命を軽んじるようになったか』です。一番肝心なところは生育歴なんですが、ほとんど語られていません。彼は、自分の親のことは話さないんです」 ──死刑囚となった現在は、命の重さに気づいているでしょうか。 「そこはわからない。あるいは気づいているかもしれない。だとしても言わないでしょうね。それよりも、自分がどう見られているか、世の中が騒いでくれているかのほうが気になるんじゃないかという気がします」
「ケアする人たち」を支えるしくみづくりを
津久井やまゆり園は2021年夏に再建された。入り口には鎮魂のモニュメントが設置されている。敷地の一角に、地域住民が出入りできる広場が設けられた。「散歩の途中に立ち寄ってください」の張り紙がある。 園舎の再建には、賛成派と反対派で議論があった。戦後、障害者のための福祉施設が各地に建てられたが、それは障害者を「収容」する側面もはらんでいた。1970年代ごろから、知的に問題のない身体障害者を中心に、「施設から地域へ」の動きが始まる。障害者を1カ所に集めて隔離するのではなく、さまざまな支援を受けながら地域で自立して生活できるようにするべきだと考える人には、やまゆり園のような山間部にある大規模施設の再建は、時代に逆行することだった。一方で、重度の知的障害のある人を地域で支えるのは難しい、施設は必要だと考える人もいた。 ──佐藤さんはもともと、施設中心の障害者福祉のあり方に問題意識を持っていたんですか。 「いいえ。学校教育と福祉はほとんど交流がありませんでした。それに、発達障害や自閉症、知的障害に関わる仕事を長く続けていると、知的障害の重度の子が地域で自立して生活するというイメージは持ちにくいんです」