過酷な現場で働く支援者たちを支えるしくみづくりを 津久井やまゆり園事件を取材したジャーナリストの提言
「障害者の家族」としての思い
佐藤さんは一度だけ、植松に手紙を送っている。公判が始まる前の2019年のことだ。 佐藤さんには、重い脳性まひを持って生まれた弟がいた。弟は3つ下で、1956年生まれ。10歳で亡くなったが、生きていれば67歳だ。やまゆり園の入所者には60代も多い。佐藤さんは、事件の一報を聞いたとき、「えっ!? と絶句してしゃがみこんでしまった。まるで弟がやられたような感覚ががーんと入ってきた」という。 ──弟さんが重い脳性まひを持っていたこと、ご両親が療育に苦労されたこと、お母さまが若くして亡くなったことを著書(『津久井やまゆり園「優生テロ」事件、その深層とその後』)で明かされています。 「弟のことはずっと触れないように、記憶に蓋をしてきたんです。だけど(取材を)やるからには、過去と向き合わないといけない。いろんなことをさらさないといけない」 「弟が8歳のときに母が病気で亡くなり、父は困り果てます。実家のあった秋田県には、当時、重症児施設はありませんでした。いろいろ手を尽くしてようやく、島田療育園(現在の島田療育センター)に受け入れてもらえることになります。弟は、昭和42(1967)年1月に10歳で亡くなるのですが、その数カ月後に父が書いた手記があって、本の最後に全文を載せました。妻への思い、息子への思いが縷々つづられています」
──その手記を植松に送ったそうですね。 「確かめたかったんです。公判が近づくにつれて不安になっているようだと、新聞が報道したんですよ。彼は一貫して自分は間違っていない、死刑判決が出ても控訴しないと言っていたわけです。それがポツンと、裁判を気にするそぶりを見せているという情報が出てきた。人を殺してしまった人というのは、あとになって自分のしたことの重さに押しつぶされます。植松は苦しむそぶりを一切見せていなかったけれども、裁判が近づいてさすがに弱気になっているのではないか、と」 ──返事は。 「来ました。短い手紙でしたが、『障害児の家族と話し合いはできない』と書かれていましたね。私の母が亡くなったのは、重度障害者と関わったことによる過労だとも」 ──どう思われましたか。 「そうか、と。彼は(後悔や反省をしているとは)認めないだろうと予想していましたから、意外ではなかった。でも、裁判が終わって、彼についての情報もいろいろ集まってきたときに、ひょっとしたら、この短い手紙に、彼の内側を読み解くポイントがあるんじゃないかと思ったんです。手紙を読む限り、あれだけたくさんの人を殺傷しても、心理的ダメージを受けていない。それが一つ、手がかりになっていきました」