北九州「成人式のド派手衣装」生みの親の“苦悩と逆転”。九州の恥から一転、NY個展へ
まったく元が取れないオーダー貸衣装
金さん・銀さんの希望を叶えるために辿り着いたのは、いまはなき京都の機織り業者。普段は袴など作っていないその業者にお願いし、金と銀の生地を織るところからスタートすることになった。ただ、1種類につき約10人分もの生地が出来上がる仕組み。 「生地は機械で作るので、決められた長さが自動的に出来上がります。その一部だけを買い取ることもできなかったため、100万円近くの赤字を抱えることになりました。さらに、はじめて縫製から携わったのも、このときです」 縫製した袴を見せると、金さん・銀さんは大喜び。さらに、成人式で目立つことに成功した彼らは、お礼をとともに「後輩を紹介します」とも言ってくれたとか。驚いたのは、その翌年。金さん・銀さんの後輩だというお客が何十人もやってきたのだ。
衣装は基本レンタル
「そして、先輩より『派手なもの』『スゴイもの』と希望したのです。当然ですが、彼らが要望している“金さん・銀さんを超えるもの”は、既製品にはありません。本格始動はもう少しあとですが、この頃ぐらいから、ブライダル中心の事業スタイルから変化していきました」 希望すれば買い取りもできるというが、現在も基本はレンタル。ド派手衣装の場合、衣装代(傘やトラなどの小物は別途オプション料金が必要)のみで10万円ぐらいから相談に乗っているため、オーダー製作した衣装の料金は長期間にわたり回収できないことも多いという。 「正直、お客さんの夢を叶えるのが最優先なんです。ド派手衣装の在庫も、こんなに増えちゃって。どうするんだって思っちゃいますよね。トラの顔が付いた衣装もありますよ(笑)」 普通の人ならマイナスの総合計金額に凹んでしまい、事業方針を転換することさえ考えそうな状況だが、「だから私、商売は下手だと思います」と、豪快に笑い飛ばしてしまう。そんな池田さんだが、過去には精神的にキツイ日々が長く続いたこともあった……。
やってきた「虹キング」
池田さんがド派手成人式の衣装を本格的に手掛けるようになったキッカケは、金さん・銀さんの来店から5年後の2008年頃。金さん・銀さん以降、「先輩より目立つように」と毎年レベルアップする派手な衣装の要望に応えてはいたが、“虹キング”の登場は別格だった。 「私が勝手に『虹キング』と呼んでいる彼は、レインボーの傘に7色の羽織袴のイメージ画を持ってお店にやってきました。このときも取引先の業者をあちこち当たりましたがどこにもなく、7色に染めるのは難しいため、7つの生地を縫い合わせて作ることにしたのです」 約1年かけて仕上げた衣装を見た虹キングは、とても喜んでくれたのだそう。そして、そんな彼らがとくに喜んだのが、当時発行されて人気だったタウン誌『おいらの街(おい街)』に掲載してもらうこと。ド派手衣装に身を包んだ成人式の写真を撮ってもらうことだった。 「でも、そのあとで『おい街』が廃刊になってしまい、みんなとても残念がっていたんです。そこで2010年頃、彼らの思い出になるような雑誌をと当店で 『みやびBOOK』を発刊。テレビに出たいという声もあったのでメディアにも取材してくれるよう申込みましたが、当時は実現しませんでした」