唯一無二の司令塔・山本理仁。幾度の挫折を乗り越えて進化、世代屈指のレフティが満を持して世界の舞台へ【パリ五輪の選ばれし18人】
試合に出るのが怖くなるほどの苦悩
パリ五輪に挑む大岩ジャパンのメンバーがついに発表された。ここでは56年ぶりのメダル獲得を目ざすU-23日本代表の選ばれし18人を紹介。今回はMF山本理仁(シント=トロイデン)だ。 【PHOTO】パリ五輪に挑むU-23日本代表18名とバックアップメンバー4人を一挙紹介! ――◆――◆―― 何度も道に迷いそうになった。その度に光を探し、もがき苦しんだ。出口はどこにあるのか――。そんな想いで彷徨い続けたが、気が付けばまた深い森に入り込んだ。それでも這い上がり、その度に強くなった。もう迷わない。自分らしさを取り戻したレフティが五輪の舞台に立つ。 神奈川県の相模原市で生を受けると、幼い頃から自然とボールを蹴るようになった。最初は父と蹴っていたが、小学校に入学すると、公園でストリートサッカーに興じるように。相手は地元に住んでいたペルー人たち。「めちゃくちゃうまかった」というほどの衝撃を受け、なかなか勝つことができなかった。だが、勝ちたい一心で戦い続けていくと、自身の技巧は自然と上達。同時に幼稚園の年長からヴェルディサッカースクールの相模原支部に通っていた点もプラスに働き、地元では名の知れたサッカー少年となった。 そして、小学校4年生の進級した時に東京ヴェルディのジュニアに入団。伝統ある“緑のキット”に袖を通すと、以降は同世代の仲間を牽引するプレーメーカーとして圧倒的な力を見せた。 ジュニアユースでプレーする頃には“山本理仁”の名は全国に知れ渡っており、多くの選手から「なんだあいつは」と言われるほど、正確な左足のキックとゲームを組み立てる力は抜きん出ていた。 ユースに入っても1年次から永井秀樹監督(現・ヴィッセル神戸スポーツダイレクター)に重宝され、早い段階でポジションを獲得。ポゼッションサッカーのイロハを叩き込まれた一方で、新たな価値観が定着するまでには時間を要した。 それでも少しずつ理解を深め、高校2年次のタイミングでトップチームに昇格。だが、ここで壁に当たり、思うように活躍ができなくなった。 フィジカル面が弱く、当たり負けするシーンもしばしば。自由にボールを持たせてもらえず、良さを全く出せなくなったのだ。セントラルMFではなく、ゲームメイク能力を買われてCBやSBでもプレーしたが、本来の姿を取り戻せない。当時の苦悩を回想し、以前のインタビューで山本はこんな言葉を残していた。 「その状況を考えて、(トップチームの監督になった)永井さんがSBやCBで起用してくれたんですけど、見える景色も違えば、味方との距離感も違う。そこからハマって、自分の原点であるサッカーを楽しむことが失われて、めちゃくちゃ悩みましたね」 練習に行くのが嫌になるぐらいに悩んだ。試合に出るのが怖くなるほどで、サッカー人生で初めての挫折を味わった。 その間にチームメイトである藤田譲瑠チマ(シント=トロイデン)が台頭。2019年秋のU-17ワールドカップでブレイクし、翌年にはトップチームでレギュラーポジションを掴んでいた。そうした仲間の活躍も自身に焦りをもたらした。