「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・橋姫④ 出生の秘密を知る者との、思いがけない「出会い」
「こうしてこちらに参ることは幾度目かになりますが、あなたのようにものの情けをわかった人はいなかったので、露深い道中をただひとり濡れながら帰ったものでした。これはうれしい機会のようですから、どうぞ何もかも残さずお話しください」と言う。 「こんな機会もめったにありませんよ。もしあったとしましても、明日をも知れぬ命で、先のことはあてにはできません。ですからただ、こんな年寄りがこの世にいたとだけお見知りおきください。三条宮(女三の宮の邸)に仕えていた小侍従(こじじゅう)はもう亡くなってしまったと、ちらりと耳にいたしました。その昔親しくしていた同じ年頃の人々も、多くは亡くなってしまいましたが、私はこの年になって、遠い田舎から縁故をたどって京に帰ってまいりまして、この五年六年のあいだ、ここにこうして仕えております。ご存じではないでしょうね、近頃、藤大納言(とうだいなごん)とおっしゃる方の兄君の、右衛門督(うえもんのかみ)でお亡くなりになった方(柏木(かしわぎ))のことを。でも何かの折などに、その方のお噂くらいは耳になさったこともあるでしょう。お亡くなりになってから、まだ本当にそれほどたっていないような気がいたします。その時の悲しみも、未だ袖の涙も乾く暇がないように思えますのに、あなたさまがこうして立派に成人なさったそのお年からしても、まったく夢のようで……。その、亡き権大納言(ごんだいなごん(柏木))の乳母(めのと)だった人は、この私、弁(べん)の母親だったのです。人の数にも入りません私ですが、朝夕おそばにお仕えしていましたので、だれにもお話しになれず、でもそのお心ひとつにはおさめきれなかったことを、ときおりこの私にお話しくださっていたのです。いよいよ最期かもしれないというご危篤の際に私をお呼び寄せになり、少しばかりご遺言なさったことがあります。あなたさまのお耳にも入れさせていただきたいことがひとつあるのですが、ここまで申し上げましたので、もし残りも聞きたいというお気持ちがありましたら、そのうちゆっくりお話しさせていただきましょう。女房たちが、この私が見苦しい、出すぎた真似を、とつつき合っているようなのも、もっともなことですから」と、その後は何も言わない。
次の話を読む:12月21日14時配信予定 *小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです
角田 光代 :小説家