【光る君へ】NHK大河では描けない…汚物まみれで死んでいった「道長」の苦しい最期
道長はまひろの無事を祈ったが
藤原道長(柄本佑)が栄華を極め、3人の娘を后にして「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠んだ翌年の寛仁3年(1019)。この年の3月末から4月にかけ、異賊が壱岐と対馬、続いて九州沿岸を襲った。「刀伊の入寇」である。「刀伊」の主力は、のちに中国大陸に「金」や「真」を建国した女真族だと考えられている。 【画像】大河の印象が一変? “妍子(きよこ)”の「JK姿」 ほか
これを大宰権帥として赴任していた藤原隆家(竜星涼)が、北九州の在地の官人たちをまとめ上げて撃退した模様は、NHK大河ドラマ『光る君へ』の第46回「刀伊の入寇」(12月1日放送)で描かれた。加えてこの回では、まひろ(吉高由里子、紫式部のこと)も大宰府を訪れており、松浦(長崎県松浦市)に向かう途中で刀伊に襲われた。 第47回「哀しくとも」(12月8日放送)では、刀伊による襲撃の事実が道長の知るところとなった。道長の嫡男で摂政の頼通(渡邊圭祐)は、藤原行成(渡辺大知)が道長に伝えようとするのを止めたが、大宰府の隆家から藤原実資(秋山竜次)のもとへ直接手紙が届いており、実資が道長に伝えたのである。 道長はそもそも、旅に出ると言って大宰府に向かったまひろのことを気にかけていたが、そこに異賊が襲来したと聞いたものだから、心配して「どうか生きていてくれ」と心の中で祈ったのだった。 しかし、このとき紫式部が大宰府に行っていたというのも、道長と紫式部が愛人関係にあったというのも『光る君へ』の創作であって、史実の道長にはこのときもその後も、もっと大きくて深刻な悩みがあった。
極楽往生のための準備を重ねたが
道長が出家したのは、刀伊の入寇の直前の寛仁3年(1019)3月21日で、この年の正月以降、胸病、霍乱(急性胃腸炎)などを次々と患い、眼病で目の前の人の顔すらぼやけるような状態が続いたのちのことだった。それ以後も、むろん政治には関わるのだが、同時に極楽往生を遂げるための準備に取りかかっている。 私邸の土御門殿の東に、金色の阿弥陀如来像9体を本尊とする阿弥陀堂の建立を発願すると、年内にはもう阿弥陀像は完成し、翌寛仁4年(1020)3月22日、阿弥陀堂の落慶供養を盛大に行っている。これが無量寿院で、さらに治安2年(1022)7月には、この無量寿院に大日如来を本尊とする金堂、五大尊像を本尊とする五大堂などが次々と建てられ、寺号が法成寺と改められた。 法成寺は摂関政治の時代に建てられた最大の寺院だった。要は、道長は現世では栄華を極めたので、今度は来世においても心配がないようにと、万全の準備をしたということだろう。治安3年(1023)には、東大寺、興福寺、法隆寺、四天王寺など多くの寺院を参詣したうえで高野山にまで詣でており、万寿元年(1024)6月には、法成寺にさらに薬師堂を完成させるなど、自身の極楽往生のために余念がなかった。 しかし、その前に現世での悲しみや苦しみが、次々と道長を襲うこととなってしまった。