『光る君へ』12歳で入内後、出産まで実に10年を要した道長の娘「いけにえの姫」彰子。苦しんだであろう日々が『源氏物語』にも影響を…その生涯について
◆一条天皇の後宮の状況 しかしこの時に皇后になったのは、円融上皇の中宮だった藤原遵子(公任の姉)です。 道長はこの前例をさらに乱用し、一人の天皇に皇后と中宮の2人の「正妻」を置くという強引な策に出たわけです。 じつはこの時、一条天皇の後宮はかなり賑わっていました。 まず寵愛が厚いのは定子とその同母妹の御匣殿ですが、当時すでに、この2人のバックの中関白家は衰退しています。 そのほかに三人の女御、藤原公季の娘・義子(天皇より6歳年上)、顕光の娘・元子(1歳年上)、道兼の娘・尊子(4歳年下)がいて、いつ男子が産まれてもおかしくない状況ではありました。 しかしながら、まだ少女の彰子が正妻に入った以上、これ以上の女御を入れる事は道長に対するはばかりになる。そして彰子が入内した年には定子が、2年後に御匣殿が亡くなってしまいました。
◆彰子の妊娠・出産を待った道長 つまりこれ以後、一条の後宮に娘をいれたいと考えた有力貴族がいても、中宮彰子が立ちふさがるので、それはできない。あとは彰子の妊娠・出産待ちでした。 しかし、先述した通りで、彼女が後の後一条天皇を出産したのは入内から10年後となります。 おそらく入内後数年で、彰子自身は子を産める状況になっていたと思われますが、様々な事情でなかなかできなかったのでしょう。 そこで道長が注目したであろう存在が、定子の遺児の敦康親王と、道兼の娘の女御尊子です。 この二人の共通点は道長に近い親戚で、しかも後見がいない、つまり道長庇護下の立場でした。 敦康は実質的に彰子が育てており、彰子に子供ができない時には養子になる可能性がありました。またもし尊子が男子を産めば、やはり同様のことになった可能性があります。 道長はこのように幾重にも保険をかけながら、彰子の妊娠を待っていたのです。
◆彰子の気持ちと関わるかもしれない『源氏物語』のエピソード 紫式部が著した『源氏物語』には、この間の彰子の気持ちと関わるかもしれないエピソードがいくつも見られます。 まず、『若紫』での光源氏と若紫の出会い。 大学生と小学生くらいの二人の出会いは、入内した頃の一条と彰子に重なります。 そして幼い姫が入内して翌年妊娠する話も『源氏物語』に出てきます。 光源氏と明石の上の娘で、紫の上の養女となった明石の姫君です。 彼女は11歳で裳着(成人式)を行い、東宮(源氏の異母兄朱雀院の子)に入内。13歳で妊娠し、男子を出産し、東宮の即位により中宮となりました。
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