「今は騎手変更、騎手変更ばかりでしょ」ナリタブライアンの主戦・南井克巳が感謝する“タマモクロスの縁”「GI勝利だけで人間の価値は…」
1990年代唯一の三冠馬ナリタブライアン。「シャドーロールの怪物」と称された名馬の“30年後の真実”を追った書籍『史上最強の三冠馬ナリタブライアン』(ワニブックス)から主戦騎手を務めた南井克巳、好敵手マヤノトップガンの主戦だった田原成貴が語った「ブライアン評」を転載にて紹介します。(全4回の第2回/第1回へ) 【写真】日本初の女性騎手は今、スナックのアドバイザー役も…ハイボールを作る姿などウマ娘で話題の人を現役時代を含めて一気に見る この頃、南井は毎年、夏開催は北海道シリーズに腰を据えて参戦していた。そこに声をかけてきたのが大久保正陽だった。 「君はダービーを取ったことはあるか」 「いえ、ありません」 「じゃあ、(ダービーを)本当に勝てるかわからんが、乗ってみるか」 厩舎で引き合わされたのがナリタブライアンだった。
南井はすでにトップジョッキーの1人だったが
30年前の南井克巳は、すでにトップジョッキーのひとりであった。関西では武豊が1987年にデビューし、2年目にはスーパークリークで菊花賞を制覇、3年目に早くも全国リーディングジョッキーに輝くなどその天才ぶりを発揮していた。 南井も大レースで騎乗する騎手のひとりとして欠かせない存在だったが、その地位を確立するまで、武豊とは対照的に長い時間がかかった。 1953年1月17日、京都市伏見区で生まれた南井は、父親の仕事の関係で4歳の時に愛知県刈谷市に引っ越した。その街中でよく出会ったのが馬だった。 「刈谷市は瓦や土管などを作る窯業が盛んな街で、馬が瓦や土管を運んでいたんですよ」 2023年10月のインタビューの際に南井さんは教えてくれた。 引っ越しによって身近になった馬。加えて、父親が中京競馬場や名古屋競馬場に連れていってくれた。160センチに満たない小柄な体もあって、いつしか騎手を志すようになっていた。それは自然の成り行きだった。 南井が日本中央競馬会の第19期長期騎手養成所に入ったのは1968年4月。3年後の1971年3月に騎手免許を取得し、栗東の工藤嘉見厩舎からデビューした。初日に初勝利を挙げ、12月までの10カ月間で20の勝ち鞍を積み上げて関西騎手新人賞を手にした。
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