「恵みの海は、後継ぎの息子と母を奪った」宮城の刺し網漁師 原発事故、処理水でも「この海で」 #知り続ける
冬の浜風が作業場の壁をたたく。かじかむ手で竹製の網針を操り、破れた網を黙々と編み直す。長い年月をかけて身に付けてきた手仕事だ。 宮城県山元町の刺し網漁師猪又賢さん(70)は、福島県境と接する山元町磯地区で父親の代からの漁師。漁船「妙見丸」と共に、沖合の豊かな漁場で40年以上、カレイやヒラメを取ってきた。 恵みの海はしかし、たった一人の後継ぎを奪っていった。13年前の東日本大震災で長男賢介さん=当時(26)=と母ツメ子さん=当時(78)=が死亡。2人は大切な船を守ろうとし、津波にのまれた。絶望からの再起を支えたのも、2人が残した船だった。 「俺は元気でやってっから」 漁を立て直すのは簡単ではない。原発事故や、昨年は処理水放出という〝荒波〟にも直面した。それでも、変わらぬなりわいをつないでいる。(共同通信=下沢大祐)
家族と共に漁へ
猪又さんはもともと、父親と一緒に漁に出ていた。2002年にその父が他界した後、仙台市の高校を卒業した賢介さんも船に乗るようになった。なぜ漁師を選んだのか、面と向かって聞いたことはない。 「自然にそうなったんだな。じいちゃんと俺が2人で働いていたのを見ていて、手伝わなきゃと思ったんだろう」 母親は若いころから家業で魚の行商をこなし、網の修理も手早かった。船には乗らないが 「岡船頭」のような存在だった。家に帰ればいつも、3人で明日の漁のことを話した。
「地震が来たら船を沖に…」
2011年3月11日。猪又さんは会合があった仙台市で大きな揺れに襲われた。慌てて自宅に引き返したが、海沿いの道は津波で流された大木にふさがれて通れない。夜になってようやく地元にたどり着いた。 翌朝、目の当たりにした自宅は、1階天井まで波をかぶり全壊。家に向かい家族の名前を叫ぶと、しばらくして妻と長女から返事があった。2人は2階でぎりぎり難を逃れていた。 「賢介とばっぱはどこさ行った?」「船を見に港さ行ったまま帰ってこねんだ。行くなって 言ったんだけど…」 胸騒ぎがした。 妙見丸は前年末に造り替えたばかり。震災当日は隣町の福島県新地町に停泊していた。 浜には昔から「地震が来たら船を出せ」という言い伝えがある。船が壊れるのを防ぐため、津波の影響が小さい沖合に出す「沖出し」と呼ばれる手法だ。猪又さんも前年にチリ沖で大地震が発生した際、沖出しをして事なきを得ていた。2人も沖出しへ行ったのかもしれない。