「恵みの海は、後継ぎの息子と母を奪った」宮城の刺し網漁師 原発事故、処理水でも「この海で」 #知り続ける
「悲しむ余裕もなかった」
だが、チリ沖の地震と今回では津波の規模が違いすぎた。 「近くの高台に逃げていてくれ」 かすかな希望を胸に避難所を回ったが、賢介さんとツメ子さんの姿はない。数日後、安置所でやっと対面できたが、2人とも亡くなっていた。 2人の発見場所から約30メートル離れた内陸の用水路に、ほぼ無傷の妙見丸があった。船と一緒に流され、操舵室から脱出したところで引き波や第2波にのまれたとみられる。 「何が何だか…悲しむ余裕もなかった」 船が流失した場合、再建に国から補助が出ると知ったのは、震災後だった。「船は壊れてもなんとでもなる。でも命は作り直せないんだ」。無理をして船を守る必要はない、後から振り返ればそう思う。
「漁師をやらなけれは、生きていたかも」
船以外の漁具は、多くが流された。猪又さんは妻、長女と福島県新地町にあるアパートの一室に身を寄せ、がれき撤去のアルバイトで生計を立てた。慣れない住まいでの生活、仕事を続けながら、いくつもの「なぜ」が浮かんでは消えた。 長男の賢介さんは「器用ではなかった」という。自分の背中を見て少しずつ一人前になっていた。ロープで船を岸壁に固定するもやい結び、市場に出荷する魚の選別。一緒に働いた8年の間にたくさんのことを教えた。酒も飲まず、おとなしかった息子の本音はどうだったのだろう。 「漁師なんてやんなければ、今でも生きていたのかもな」 そんな思いが胸を突いた。震災がなければ、ツメ子さんも元気に働いていただろう。 顔見知りの漁師も犠牲になった。「千年に一度」と言われる津波。「それならせめて百年後に来いよ」。行き場のない悔しさが募った。
唯一残された船が支えに
地区の磯浜漁港に停泊していた船は全て流され、岸壁などが壊滅的な被害を受けた。復旧が見通せない中、猪又さんは手元に残った妙見丸を差し出し、仲間たちとの共同保有にした。 2011年夏、浮きなどの資材をかき集めて定置網漁をすると、丸々と太ったサケが大量に取れ、それぞれの生活の糧になった。仲間たちの久々の笑顔を見ると「残った船が皆のためになったんだ」と少しだけ心が救われた気がした。 翌年もその次の年も、皆で定置網を起こした。 ただ、約50キロ南にある東京電力福島第1原発の事故によって、水揚げ先だった新地町の市場は閉鎖し、一部の魚種の単価は下落が続いていた。放射能や風評被害の影響も懸念されたが「いまさら丘には上がれない。どこに行く気もなかった」。 大切な家族の命を奪い、それでも恵みを与える海で生き抜くと決めた。