資本主義と情報技術の「不幸な結婚」が生んだ、世界中で起きている「悲劇」の真実
「自己目的化」する相互承認の欲求
前者のゲーム、つまり市場を通じた社会参加は自分の物語の体験であり、後者のゲーム、つまり民主主義を通じた政治参加は他人の物語への感情移入だ。 そして重要なのは後者、つまりSomewhereな人びとのプレイする小さなゲームが、より上位の前者、つまりAnywhereな人びとのプレイする大きなゲームの一部として提供されていることだ。 Somewhereにしか生きられない持たざる者にとって、特定の共同体に所属し、その内部からの承認を獲得することこそが唯一の世界に関与する実感を、世界に素手で触れる実感を得る方法だ。 そして残酷な話だが今日においてAnywhereな人びとは、Somewhereな人びとのこうした欲望を可視化し、彼らのプレイする巨大な相互評価のゲームによって収益を上げる構造を作り上げている。 その構造とはFacebook、X(Twitter)などのSNS(ソーシャルネットワーキングサービス)と呼ばれるインターネット上のプラットフォームだ。 このとき重要なのは、このSomewhereな人びとのプレイする相互評価のゲームが自己目的化すること、つまりゲームのプレイが手段ではなく「目的」になることだ。 自己の発信が、他の誰かになんらかのかたちで承認されること。それはその一瞬で忘れ去られる小さな承認だが、圧倒的に低コストで手に入るために人びとはまるで、口の寂しさをキャンディで慰めるようにそれを反復して求め、そして中毒に陥る。 さらに中毒に陥った人びとは、やがて具体的に承認が得られなくてもゲームのプレイそのものを欲望するようになる。そこには、たとえ結果がともなわなくても世界に素手で触れる手触りがあるからだ。 こうして下位の相互評価のゲームのプレイヤー(Somewhereな人びと)はこのゲームそのものの快楽の虜になる。このときの「相互評価」の多くは、実質的にはインスタントな承認の交換にすぎないことは、すでにトランプが証明したとおりだ。 つまりその内容が正確であることや、問題の解決に有効であることではなく、そのプレイヤーに承認を与えてくれる──同じ敵を憎み、同じ敵に石を投げるあなたは私の味方である──という承認の交換にすぎない。なぜならば、メッセージの内容を吟味して「評価」するよりも、敵か味方かを判断して「承認」を交換するほうが、時間的にも経済的にもコストパフォーマンスが高く知力も必要としないからだ。 そして、下位のゲーム(相互評価のゲーム、主に民主主義)の設計者を兼ねたメタプレイヤーたち(Anywhereな人びと)はこのゲームを中毒的に反復するゾンビのようなプレイヤーたち(Somewhereな人びと)を動員して収益を上げることで上位の市場のゲーム(金融資本主義)をプレイしているのだ。