資本主義と情報技術の「不幸な結婚」が生んだ、世界中で起きている「悲劇」の真実
SNS上での承認を求め、タイムラインに流れる「空気」を読み、不確かな情報に踊らされて対立や分断を深めていくーー。私たちはもう、SNS上の「相互承認ゲーム」から逃れられないのでしょうか。 【写真】資本主義と情報技術の「不幸な結婚」が生んだ、世界中で起きている悲劇の真実 評論家の宇野常寛氏が、混迷を深める情報社会の問題点を分析し、「プラットフォーム資本主義と人間の関係」を問い直すところから「新しい社会像」を考えます。 ※本記事は、12月11日発売の宇野常寛『庭の話』から抜粋・編集したものです。
ゲームの二層構造
いま、出現しつつあるのは言わば人びとが社会を物語としてではなくゲームとして把握する世界だ。古いたとえを用いれば、かつての近代人は世界と自己との関係を「政治と文学(物語)」としてとらえていた。しかし今日を生きる現代人はそれを「市場とゲーム」としてとらえている。 20世紀まで、人間の多くは(多くの場合は国民の)歴史=物語によってその生を意味づけていた。歴史という物語のなかの登場人物として自己を位置づけることで、アイデンティティを確認していた。 物語の主役は他にいる。それは国民を代表する政治家やアスリートであり、その時代を代表する俳優やポップスターだ。そして人びとは彼ら/彼女らに(映像や放送を通して)感情移入する。他人の物語にみずからを重ねあわせる。そして同じ物語の登場人物としての、国家を始めとする共同体の一員としての意識をもつ。価値のある共同体の一員であることに、アイデンティティを見出すのだ。 しかし、21世紀の今日においてはゲームのプレイのもたらす世界に対する手触りがそれにとって代わっているのだ。 今日の世界は、巨大なひとつのゲームとしてとらえることができる。そして、このゲームは二層に分かれた構造をもつ。それはAnywhereな人びとのプレイするゲームと、Somewhereな人びとのプレイするゲームだ。 グローバリゼーションと情報化は、国家(ローカルな物語)よりも大きな市場(グローバルなゲーム)をもたらした。このあたらしい「境界のない世界」に対応したAnywhereな人びとは、個人の力(を用いた経済的なアプローチ)でグローバルな資本主義というゲームをプレイする(直接体験する)。 対して対応できないSomewhereな人びとはローカルな相互評価のゲームをプレイする。それは他の誰かに認められること、つまり承認を獲得するためのゲームだ。そしてこの相互評価による承認の獲得のゲームのなかで、もっとも低コストで強い承認を得られる人気のプレイスタイルが「民主主義」なのだ。 民主主義による政治への参加は画面のなかの誰かを「推す」ことで、擬似的に自己実現を果たす。集団の一部として代表を選ぶことで、他人の演じる国家の歴史という物語に感情移入する。そしてその実現には社会的な「正義」が保証されているために、人びとは迷うことなくそれにコミットすることができ、そして実現したときの快楽もきわめて大きいのだ。