朝ドラ『虎に翼』星朋彦のモデルは会津藩家老の名家出身! 初代最高裁長官を務めた三淵忠彦氏の功績とは?
NHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』第13週「女房百日、馬二十日?」が放送中。寅子(演:伊藤沙莉)は、最高裁判所長官・星 朋彦(演:平田 満)の著書の改稿作業を手伝うことになる。息子の星 航一(演:岡田将生)と共に作業を終えたものの、朋彦は本の完成を待つことなくこの世を去る。今回は彼のモデルとなった三淵忠彦氏の生涯を追う。 ■会津藩家老・萱野家に生まれ司法の道へ 三淵忠彦氏は、明治13年(1880)に会津藩士・三淵隆衡氏の子として誕生。父方の萱野家は会津藩家老・侍大将を務めた名家だった。伯父である萱野長修氏は藩主・松平容保の側近で、家禄は1500石だったという。しかし、戊辰戦争に敗れた結果、長修氏は処刑され、家名を断絶させることになったために忠彦氏の父からは「三淵」を名乗っている。 忠彦氏は司法の道を志して東京帝国大学法科大学に入学。勉学に励んでいたが、両親と弟の死を機に学業を中断することになった。その後、京都帝国大学法科大学に入学し直し、法律を学んだという。 明治38年(1905)に大学を卒業すると、書生となって東京で暮らし、明治40年(1907)に東京地方裁判所の判事となった。その後、長野地方裁判所判事や大審院判事、東京控訴院上席部長などを歴任。ところが、大正14年(1925)に45歳という若さで退官してしまった。 作中では「金銭的な問題で裁判官の職を離れていた」という旨の話をしていたが、忠彦氏も退官後に三井信託株式会社の法律顧問や慶應義塾大学の講師を務めている。 そして終戦後の昭和22年(1947)、初代最高裁判所長官に就任。この背景には、実は冒頭にご紹介した会津藩の流れがある。時の片山内閣で司法大臣を務めていた鈴木義男氏が忠彦氏を推挙したのだが、鈴木氏は福島県出身だった。その上、内閣総理大臣・片山 哲とも旧知の仲だったこともあって最終的に最高裁長官という大役に選任されたのである。また、これは諸説あるものの、松平容保の息子で参議院議員だった松平恒雄氏の後押しもあったといわれる。 就任時点で67歳という高齢で、今なおこの年齢での就任は最高齢である。それもあってか、翌昭和23年(1948)10月に病に倒れて約8ヶ月もの間登庁できなくなった。そして、長期間の不在は各方面から「登庁すべし」と批判されてしまう。闘病しながら戦後の日本の司法と最高裁判所の基礎固めに尽力し、日々職務にあたっていたものの、昭和25年(1950)2月に裁判所内で倒れ、そのまま定年退官を病床で迎えた。この世を去ったのはその4ヶ月後、同年7月のことだった。 福島県発行の『福島百年の先覚者』によると、死を目前にして忠彦氏は我々は天下の大道を歩こうよ、よしや抜け道や裏道があって、その方が近いと分かっていても、それはよしましょう。川に橋がなければ橋を架けて、そして渡りましょう」と口にしたという。ほかにも「人格を磨き、人品を高尚にしなければなりませぬ」といった言葉が残っており、常に公明正大であった人柄が窺える。また、作中にも登場した『日常生活と民法』の著作や「法律民衆化の講演会」などを通じて、法曹界関係者だけでなく一般市民の立場に寄り添い続けた生涯だった。 <参考> ■明治大学史資料センター「三淵嘉子(みぶちよしこ)―NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)の主人公のモデルとなった女子部出身の裁判官―(法曹編)」 ■神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター) ■福島県総務部文書広報課『福島百年の先覚者』
歴史人編集部