「グレタ」と「ナウシカ」そして「ジャンヌ・ダルク」――人類の危機に現れる異能の少女
批判のパターン
それでも多くの大人たちはグレタが訴える問題をさほど切迫したものとはとらえていない。環境活動家に批判的な人もいて、そこには次のようなパターンが見られる。 一に、産業文明社会の成功者であり、自らの功績が否定されることに耐えられない。二に、気候変動があるとしても、それが悲劇的なものとなるのは先のことで、自分は生きていないという年齢層である。三に、地球は氷河期に向かっているので、温暖化によって問題が相殺されるという反論をする。 実は僕も、どちらかといえば都市化を進める立場であり、環境問題を唱えることによって自分の立場を確保しようとする人をあまり好きではなかった。大学や論壇にはそういう人が多く、しかも自分は車を乗りまわし、飛行機であちこちと出かけ、ゴルフに興じる人さえいる。 しかし、僕の親しい友人(高校と大学の同級生)である、南極観測隊長兼越冬隊長、国立極地研究所長などを歴任した藤井理行君から話を聞いて、温暖化を切実な問題であると考えるようになった。彼は南極の氷を深く掘り下げて過去72万年に及ぶ大気のCO2濃度と平均気温を調べ、両者が並行して変動することを明らかにしたのだが、過去100年はこの長期的な(数万年にわたる)関係が崩れ、CO2濃度の異常な上昇が続いているという。(参照:THE PAGE「『異常気象』と憲法改正」2018年9月22日配信)
科学的な神の領域
だが、多様な生物の絶滅と人道上の問題を天秤にかけることは難しい。 「科学的な神の領域」とは、矛盾する言葉のようだが、あまたある非科学的言説を肯定するものではなく、むしろ純粋に科学的な認識から始まる絶望と希望のギリギリのフチに立つことを意味する。 このような認識が若い人の希望とエネルギーを萎縮させるという批判もある。しかし人類は、常に現実から目を背けることなく克服しようとする努力によって生き延びてきたのだ。生命とは環境の変化に適応するように宿命づけられた存在なのである。 われわれはグレタにも、ジャンヌにも、ナウシカにもなれないが、できることから始めるほかはない。ヴォルテール流にいえば、とにかく自分の畑(庭)を耕やすことである。 どのような破局が予想されるにせよ、明日の糧を生む行為をないがしろにすることは許されない。 どのような破局が予想されるにせよ、小さな楽しみを享受し分かち合うことは許される。