【夏の甲子園】強豪復活を託された鶴岡東の佐藤俊監督 負け続けるなかで得られた「気づき」
【憧れのチームの復活を託され監督に】 大会5日目、聖光学院(福島)との東北対決を制した鶴岡東(山形)の監督、佐藤俊は試合後にこう語った。 【写真】ヒロド歩美キャスターが甲子園と阪神タイガースを語る・インタビューカット集 「練習試合を通じていろんなことを勉強させていただいているチームと、最後までプレッシャーを感じながらいい試合ができて、感謝しかありません」 先発投手の桜井椿稀(さくらい・つばき)の粘り強いピッチングで、最後までリードを守り抜き、2対1で勝利した。 古い高校野球ファンには、「鶴岡東」よりも旧校名の「鶴商学園」のほうが馴染みがあるかもしれない(2000年に改称)。1978年の夏に甲子園初出場を果たし、翌春のセンバツで天理(奈良)から初勝利を挙げた。しかし1981年夏を最後に、長く甲子園から遠ざかることになる。 2001年、強豪復活を託されたのが佐藤だった。1971年に山形県鶴岡市(旧藤島町)で生まれた佐藤はこう振り返る。 「鶴商学園は幼い頃から憧れのチームでした。テレビを通して見た、甲子園で躍動する緑のタテジマのユニフォームに身を包んだ選手たちは私の記憶に強く刻まれ、『いつか自分も鶴商学園の一員として甲子園に出たい』という気持ちが芽生えました」 しかし、鶴商学園に進んだ時には、甲子園に出ていた頃の強さは影を潜めていた。 「自分の力で甲子園に行くと意気込んで入学したのですが、現実は厳しかったですね。私がキャプテンになって山形県で優勝(1989年の秋)したことはありましたが、それもたまたま。甲子園は遠かった」 立正大学に進学することが決まった佐藤は、鶴商学園で長年指導してきた恩師の田中英則に「教職免許を取ってこい!」と言われて送り出された。立正大野球部のOBである田中には「いずれは自分の後継者に」との思いがあったはずだ。
【「その他大勢」でくすぶる日々】 佐藤が入学した立正大学は、強豪ひしめく東都大学リーグの二部で戦っていた。そのチームで佐藤は活躍の場を得られなかった。 「ずっと裏方でした。80人から100人の部員がいて、実力に応じてA班、B班、C班に分けられていたのですが、私はC班にも入れなかった。同じ境遇の仲間と、よく『俺たちはZ班だな』と言い合っていました」 野球部の練習も寮生活も厳しかった。ある日のこと、夜中に寮に戻った監督が上級生のルール違反を発見。部員全員が叩き起こされた。 その時、上級生に代わって学生コーチの役目を任されたのが佐藤だった。 「事件があったのは、3年生になる前の冬でした。監督に『佐藤がやれ!』と言われて、春からは私が何でもやる感じになっちゃったんです」 のちに甲子園監督になる佐藤の、"指導者修行"の始まりだった。 「腰が痛かったこともあって、正直なところ、自分が"Z班"にいることに疲れていました。『これで自分の生きる道が見つかったかな』という感じでした」 【矢面に立って叱られる日々で得たもの】 「その他大勢」に甘んじていた佐藤にかすかな光が差したが、学生コーチは地味な仕事の連続だった。 「とにかく一生懸命、練習の準備と片づけに取り組みました。監督が何を考えているのかを気にしながら、先輩たちにも気を遣い、後輩たちの動向もしっかりチェックして......」 監督は特に佐藤への当たりがきつく、矢面に立たされることも多かった。当時は「なんで自分だけ」という思いが強かったが、他人のミスをかぶることで気づくこともあった。 「言ってもらわないと、気づかないこともあります。監督には感謝しています。ノックをすれば『ヘタだ』と怒られ、グラウンドや寮が汚いと叱られましたけどね」 佐藤の1学年下には、のちに埼玉西武ライオンズでプロ通算182勝を挙げる西口文也がいた。 「ランナーコーチとしてリーグ戦を戦いました。4年の秋に二部で優勝して、入替戦で勝って1部に昇格することができました」 恩師に命じられたとおりに教職課程も終えたが、4年生の11月に知り合いを通じて企業の面接試験を受け、内定を取りつけた。そんな事情を知ってか知らずか、12月になって恩師から連絡が入った。「卒業したら、山形に帰ってこい」と。しかし佐藤は、その誘いを固辞する。 そうして、東京の企業でサラリーマン生活を謳歌していた佐藤に再び連絡が入ったのは、翌年のことだ。 「私が大学2年の時に田中監督が大病を患い、その影響もあってか、鶴商学園はなかなか勝てなくなっていた。田中監督が杖をつきながら東京に来られて、『東京駅まで迎えに来てくれ』と言うんです」 恩師の顔を見た瞬間に、佐藤は山形に帰ることを決めた。 「自分に何ができるのかはわかりませんでしたが、この方のために帰ろうと思いました」