海原純子「母親からは名前を呼ばれず、医師になっても認めてもらえなかった。<娘として愛されたい>求めても叶えられなかった過去が、今でも顔を出す」
◆母はタマネギみたいな人 伊藤 自分が母にされたことで一番嫌だったのは、理由もなく気分任せにピシャピシャと叩かれたこと。たとえばお風呂に入っていて、ちょっと私が早くお湯からあがっただけで「何やってるの!」とピシャッ。 肌がふやけてるから痛いし、子ども心に「ひどいことするなあ」と思った。大人になって気づいたのは、母は子どもに何かを伝える方法を知らなかったんだと……。 海原 気づくきっかけがあったんですか。 伊藤 私が娘3人を育てるなかで、だんだんわかってきたように思います。というのは、大正生まれの母の生い立ちを調べたことがあって。 母は実家がすごく貧しくて、子どものときに芸者の置屋へ奉公に出されました。そんな環境で教養もなく育ったものだから、人を傷つける言葉でも思ったまんま口に出していたのではないかと。 海原 自分の気持ちを表現する方法を知らない――。それはうちの母もそうだったな。 伊藤 母は「普通のお母さん」がしたかったけれど、それがどういうものか彼女自身も知らなかったんだと思う。洗濯物の干し方や箒の使い方にやたらうるさかったのは、きっと奉公先で教えられたから。子どもに「アイラブユー」と伝える方法を学ぶ機会がなかったんでしょう。 海原 うちの母も貧しい田舎から横浜へ出てきて、努力して看護師と助産師と、臨床検査技師の資格を取得した人。戦争中は、大学病院で婦長として活躍した時期もあったようです。 戦後に開業医の父と結婚できたまではいいのだけど、父は広島で二次被爆を受けた影響で体が弱く、その体験から権力に従うのを良しとせず、お金儲けに無頓着。そういう点でも母は苦労したし、ののしり合いの夫婦喧嘩が絶えませんでした。
伊藤 うちも、父は特攻隊の教官だったトラウマからか、戦後の生き方はなんだか生きてないようでしたよ。 海原 伊藤さんの家庭も謎が多そうですね。うちの両親ともども、絶対開けてはいけない「ブラックボックス」を心の中に抱えていた気がします。とくに母がね。 ある程度成長してから、私は少しでも母をわかろうと思って何度も話し合いを試みました。でも母はタマネギみたいな人で。 伊藤 タマネギ? 海原 むいてもむいても中身の核心にたどりつかない。カウンセリングの現場では、「そこを開くと本人が壊れてしまう」部分は無理にこじ開けない、というルールがあり、最終的には諦めざるをえませんでした。本人の口からは結局なにも語られないまま、亡くなってしまった。 伊藤 海原さんは、なにを知りたかったんだろう。 海原 うーん、難しいですね。母に関してはわからないことだらけでしたから。たとえば私が働いたお金でちょっと良いセーターを買ってきたら、しばらくして母も同じセーターを買ってきたの。あれはびっくりした。 伊藤 謎ですねえ(笑)。海原さんはそのときどう思った? 海原 「自分だって似合うんだ」と言いたかったのかなと。つねに人から褒められたい、という意識の強い人でしたから。 伊藤 でも看護師として活躍し、医者の妻になり、娘も立派な医者にして世間から評価される人生を歩んだのに、どうしてお母さんは満足できなかったのかな。 海原 賞賛を求めてやった行為で褒められるのと、自分が本当にやりたいことをやって副次的に評価されるのでは、自己肯定感がまったく違うんですよ。 伊藤 なるほど、その違いは大きいかもしれない。
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