近藤を袖にした芸妓 今も昔もベールに包まれた政治の社交場・祇園 誠の足跡 新選組を行く
歴史が折り重なる京の街で、一段とあでやかな雰囲気を放つ祇園。激動の幕末にも、政治の社交場として重要な役割を果たした。奥深げなベールに包まれ、世間とは一線を画す花街は、京の街にその名をはせた新選組局長、近藤勇にとって苦い思い出の残る地でもあった。 【写真】祇園の芸舞妓の名が記された「祇園新地歌妓名譜」 ■宴席の話は他言無用 祇園を南北に貫き、風情ある街並みが続く花見小路。多くの飲食店が軒を連ねる中で、お茶屋がひっそりとしながらも、存在感を示している。今でも芸舞妓(げいまいこ)による季節ごとの行事が残り、伝統を紡ぐ花街の一つだ。 「かつてはかなりの隆盛を誇り、幕末も新選組をはじめ、長州、薩摩藩などの志士らも多く訪れた」。同行する幕末維新史研究家、木村幸比古さん(76)が、外国人観光客でにぎわう通りを歩きながら説明する。 《井筒 玉尾、玉菊、勇鶴…》 木村さんが所有する「祇園新地歌妓名譜(ぎおんしんちかぎめいふ)」(縦7センチ、横15センチ)。祇園の芸舞妓の名前が置屋ごとに記された名簿で、160年前の文久4(1864)年に作成されたものだ。記されている「井筒」には新選組の幹部らも立ち寄ったという。 木村さんによると、文化・文政年間(1804~30年)には、お茶屋が429軒もあり、計3千人の芸舞妓らがいた。 10万石以上の大名家は「御宿坊(ごしゅくぼう)」と呼んだ料理屋やお茶屋を抱えた。接待用の高級サロンの位置づけで、木村さんは「宴席での話が外部に漏れるのを防ぐ目的もあった」と語る。 宴席で耳にした話は一切他言しない。こうした不文律は昔から花街・祇園にもあり、現在も高級クラブなどに引き継がれている。 「お客さまの会話などは一切言うたらあかんというのは当たり前。だからこそ安心して来てはるのや」 こう話すのは、花見小路沿いにある祇園甲部歌舞練場に隣接するお茶屋バー「祇園坂田」の坂田優子さん(67)。 一般的にお茶屋は「一見さんお断り」。新規の客でも常連客の紹介だからこそ、身元や人となりが分かる。店側と客の信頼関係を保つための重要な手段だ。 坂田さんは、祇園で商売を始めて約40年。時代の移ろいを見つめ、肌で感じ取ってきた。かつて客は資産家や大企業の重役らが多かったが、最近では職業もさまざま。「ベールに包まれている世界やさかい、垣間見たいという方が大勢いはります」