近藤を袖にした芸妓 今も昔もベールに包まれた政治の社交場・祇園 誠の足跡 新選組を行く
■近藤を袖にした芸妓
幕末、武蔵国多摩郡(東京都調布市)の農家の三男に生まれた近藤も、そんな心境だったのかもしれない。元治元(1864)年の池田屋事件で一躍名を上げた新選組幹部は、祇園で豪遊するようになった。近藤は江戸に妻子がいたにもかかわらず、上洛先で妾宅を構え、多くの女性と浮名を流した。
木村さんによると、近藤は祇園一の美貌といわれた芸妓の君尾に一目ぼれした。「京の女は美しい人形じゃ」と口説く近藤に対し、君尾はきっぱりと言い放った。
「近藤さまが天子さま(天皇)派のために尽くす勤王党になっていただけるのなら、ほれましょう」。これには近藤も絶句したという。
当時、勤王派、佐幕派のいずれかを支持する芸舞妓もおり、君尾は勤王派だった。長州藩士との交流が深く、後に明治政府で要職を務めた井上馨とは相思相愛の仲だったという。英国留学から帰国した井上が攘夷派に襲われた際、懐に入れていた真鍮(しんちゅう)製の鏡に刃が当たり命拾いした。鏡は君尾からの贈り物だった。
君尾にはほかにもエピソードがある。戊辰戦争(1868~69年)時の新政府軍の軍歌・行進曲で知られる「宮さん宮さん(トコトンヤレ節)」。長州藩士の品川弥二郎が作詞したが、君尾が三味線で曲をつけたとされる。君尾は品川との間に子がいたという。
木村さんは言う。「幕末時、祇園は政界の夜の社交場であり、文化が香る街として重要な役割を果たした」
■大阪・北新地から異色の参入
祇園・花見小路を見下ろすビルの3階にある「祇園坂田」。通りの喧騒(けんそう)が噓のような静かな空間が広がっていた。「ここからは大文字(山)、京都タワーも見えるんですよ」。和服姿の坂田優子さんがほほ笑む。
大学卒業後、50人ものホステスを抱える大阪・北新地の高級クラブで働いた。大学の同窓会に顔を出し、大量の名刺を配りまくると、多くの先輩が来店してくれた。
顧客は大企業の重役ら。坂田さんは毎日経済紙に目を通し、暗記した株価を話題に盛り込む。入店1カ月後にはナンバー3に。3カ月間勤めて得た資金を基に祇園に店を出したのは、28歳のときだった。